「力」がすべてか?

こどもって面白い

 今日は併設幼稚園の卒園式だった。毎年われわれプレイスクールのリーダーも末席を用意してもらい、こどもたちの晴れの門出に立ち会わせてもらっているのだった。こどもたちが入場してくる前の会場を見ながら、いつも撮影に来てもらっているカメラマンさんと「今年はぎょうさんお父さん来てますなぁ。平日やのに…そんな時代になったんですかねぇ」なんて話をしていた。確かに年々、式に参加するお父さんの数は増えているように思う。平日(ここの幼稚園は毎年日にちが決まっている)でも来られるということは、仕事と家庭の優先順位が変化してきている現れなのだろう。大昔なら「男たるもの家庭よりも仕事が大事」なんてのがジョーシキだったのだろうし、職場にも「こどもの卒園式で休むなんて言語道断」といった雰囲気が漂っていたに違いない。仕事人間と揶揄された日本人も大きく様変わりしてきた。

 わが子の成長をともに喜ぶということはとてもいいことだ。ところで最近は「いい父親像」というものが社会的にできつつあり、ついには「父親力」なるものすら語られはじめているらしい。以前にも紹介したことのある家族向け教育雑誌の最近の特集がこの「父親力」なるもので、全77問の設問に答えると自分の父親力が解るというのだ。恐ろしい話ではないか。テストのように父親としての実力が評価されてしまうというのである。しかもご丁寧に「家族みんなでできる」などと書かれており、家族みんなといっしょに父親力診断などをして万が一ひどい点数を取ろうものなら、「ほ~ら、やっぱり! だからお父さんは…」としばらくは家族から白い目で見られるに違いない。

 最近、この「○○力」というのが流行っていて、それはそれで話としては面白いのだが、とてもこんなことを力と呼んでよいのかというものまで「○○力」といわれている。この父親力だって、父親というのは能力ではなく立場なのであって、評価されるべきものではない。しかも本来「~力」というのは計測可能なもので、数値として相対化されるものでもないはずだ。もし父親力なるものが計測され相対化されると、自分が父親として社会的にいかなる位置に立たされているのかということが明らかになってしまったりするわけだ。ヘンな話ではないか。100人父親がいたら、100通りの父親像があるのが当たり前なのだ。
 というわけで、お父さんたちは「父親力」などというまやかしに惑わされることなく、「オレはオレじゃ! お父さんはオンリーワンなのだ!」という気概で家族に立ち向かって(?)ほしいものである。

 ところで卒園式の方はといえば、おめかしをして着物やハカマ姿を着飾ったこどもたちが、とても緊張しながらも立派に修了証書を受け取る姿に、うむうむキミたちも成長したものよのぉと感慨深く、ちょっとうるうるしながらボクはその姿を見つめていたのだった。

 おめでとう さぁキミたちの目の前にでっかい世界が広がっている
 でもキミの前に道はない キミの後ろに道は出来る!

(2007/04月号)

蛇足
 社会が急速に変化し、それとともにわれわれの暮らし方や家族のあり方も変わる中、昔はあったいわゆるスタンダードも怪しくなり、いまやSDGsや多様性の時代。いろんな選択肢が認められることはいいけど、「じゃぁどうすりゃいいの?」と悩んで目にする多種多様な情報に振り回されそう。そのうち「振り回されない力」検定なんてのも出てくるのかも?

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