モノの記憶

ファミリー

 いよいよ桜も咲き出した…やっと春がやってくる。

 毎年なら気分もあがる季節なのだが、今年はそんなわけにもいかない。何たってプレイスクールが終わっちゃうのだ。そして、それに伴ってこの膨大な量の備品や素材、工具に書籍などなどを整理処分しなければならないのである。施設閉鎖のことはずいぶん前から分かっていたことなので、計画的に少しづつ進めていればここに来てこんなにあわてることもないのだが、日々の忙しさにかまけて先延ばしにしていたことの報い、さらにいえば計画的とかコツコツ積み重ねなどということができる性格であれば、今頃こんな人生を送っているはずもなく、しかしさすがに尻に火がつき気持ちだけはあせりつつ、リーダー部屋や工房、倉庫に丸太小屋などに積上げられた大量のゴミを目の前にただ呆然と立ち尽くす日々なのである。確かに普通の方にはゴミにしか見えないけれど、ボクにとっては宝の山であり、それぞれに何がしかの思い出の詰まっているかけがえのないものどもなのである。

 この糸のこ、ボクが来た時からあるよなぁ…40年以上動いているんちゃうか、この木の丸椅子は廃校になった小学校からもらってきたものやし、こっちのは廃業したホームセンターからの流れもの、これは近くにあったホテルの閉鎖でいただいたもの、この棚の毛糸は知りあいおばあさんから託されたもの…どれもこれもに曰く因縁があり、それぞれになかなか年季の入ったものどもである。

 日本では古来、古くなった道具には精霊が宿って「つくも神」となり、人をたぶらかすといわれていた。「つくも」は「九十九」つまり「百年に一年足りないくらい古い」ということで、正確ではなくとにかく長い年月を経ているものといった意味であり、道具だけではなく人や動物、草木なども古ければ精霊を獲得して自らで変化すると考えられていたのである。何にでも精霊を感じる日本人らしい感覚だけれど、大量生産大量消費でモノの価値が下がってしまった当世、つくも神にとっては生きにくい時代となったに違いない。

 さすがにつくも神になるほど古いものはプレイスクールにはないけれど、ここにあるものどものひとつ一つが多くの子どもたちの成長を見守り、子どもたちの手あかと記憶が染みついたものである。この刃物で指を切ったあの子はどうしているのだろうか…工房の引き出しをあさり回って得体の知れないものを作っていたあの子は元気にしているのだろうか…ひたすら車を作っていた彼は…ゴムてっぽうマニアのあいつは…ここにあるものどもから子どもたちの顔が浮かんで消えるのだ。

 そんな具合であるから作業は遅々として進まず、片付けの前にはまず心構えが大切とばかりに本屋で「断捨離」関連の本をパラパラ眺めてみたりした。曰く「執着を手放すヨガの断行・捨行・離行という考え方を片付けに応用」するのだという。ヨガが起源なら、見た目インド人そっくりのボクにもできるのではないかとも思ったのだが、まだまだ修行が足りそうになく、ここはこのものどもの歴史因縁を知らない人たちの力を借りることが最善との結論に達したのである。というわけで、プレイスクールの片付けのボランティアを大募集いたします。お暇の方もそうでない方も、是非ともお力添えをお願いいたします…あれっ?こんな適当な話で人をたぶらかしこき使おうとしているボクはひょっとしてもう「つくも神」になっちゃってる?

(2022/03月号)

蛇足
 こんな呼びかけが功を奏したのか、施設の片付けには本当にたくさんの方が来てくれました。役割を終えた大量のものどもが廃棄物コンテナに積み上げられていくのを見ながら、まるで自分の立っている足元にぽっかりと穴が空き奈落に落ちていくような気分になりました。
ひとつの時代の終わりってやつかな…

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