「うぉ~っ! めっちゃでっかい! すげ~分厚ぅぅ!」「おい、割ってみようぜ…せ~の~パンチっ!…痛ったぁぁ~っ!」
プレイスクールのおとなりの空き地になぜか古いバスタブがおいてあり、ここのところの冷え込みでたまっている水が凍ってみごとに分厚い氷ができている。最近、子どもたちと森に出かけるときには、必ずここに立ち寄って氷ができていないかを確認することがお決まりになっている。
子どもたちはアドレナリン全開で手の冷たさなど気にせず氷を取り出し、持ち上げては氷を透かして友だちの姿や森の風景を眺め、硬さを確認するためにパンチし、ついには地面に叩きつけ割ってその破片の飛び散る様に歓声を上げるのだ。いまの時代、冷蔵庫にはいつもでも氷ができているから氷自体が珍しいわけではないが、自然が作り出した氷は特別だ。それほどの寒冷地ではないこの場所で、しかもでっかい氷と遭遇する機会などそうそうはないし、何といってもこの季節の数少ない日にしかお目にかかれない。そしてよくよく考えてみれば、彼らはまだ生まれてから数えるほどしか冬を越していないのだ。彼らが運よく森で氷と遊べるのはまるで宝くじにあたるようなものだ。それほどに子どもたちの日々の体験は新鮮さに満ち満ちている。
ところで少し前に「子どもたちの『体験』はいつでも『学習』になる」というコピーの学習塾のテレビCMを目にした。うろ覚えだが、子どもが興味深そうに花を見ていると、そばにいた大人がすかさずスマホでその花の名前などを調べて子どもに教えるといった映像だったような気がする。確かに「体験」を通して「知識」を教えるということは印象深く心に刻まれるから、学習方法としては間違ってはいないのだろう。しかしである。その子はひょっとすると花びらの色合いの美しさや葉っぱの形に感動していたのかも知れないし、大人にはもうできなくってしまったお花さんとの会話を楽しんでいたのかも知れない。大人が差し示した花の名前や生育環境、花びらの枚数、種子の形といった「情報」をその子は本当に知りたがっていたのだろうか。大人はすぐに近道や効率を考えてしまいがちだ。「体験はいつでも学習になる」は最終的には、効率の良い学習のために体験をすることになり、体験はあくまで学習という目的のための手段となってしまう。
大人にとって世界は情報で成り立っているのかも知れないが、子どもたちにとって世界は感動と驚きでできているのだ。大人が先回りして知識や情報という眼鏡を子どもにかけてしまえば、子どもにとって世界は生き生きとした感動を失って、覚えなければならない灰色の教科書として立ち現われるだろう。世界が色とりどりの感動と驚きに満ちていれば、子どもは世界に対してどんどん興味を持つだろうし、そうすれば自分自身の努力で「知識」を得ようするだろう。
「なぁ、この氷ってどうやってできたんやろ?」「あぁこれな、オレの友だちのエルザに頼んで、昨日の夜に作っといてもらってん! すごくない?」「あ~あ、またや。リーダーってホンマうそばっかりやし! いっつもそうやデタラメばっかりや!」ボクなどいつもこうやって子どもらに叱られてます。でもね、ボクらがプレイスクールでキミたちに伝えたいのは、世界っておもろいやんということだけなんや。そう、それだけで充分。
(2016/02月号)
蛇足
大人にとって世界は理路整然と答えのわかっているかのように眼の前にあることになっています(でも、実はわからないことやあやしいこともあるのですが、見ない知らないことにしているだけなのですが…)しかし、子どもにとっては何だかわからないけれどワクワクしたものとして立ち現れています。何だこれは?という不思議さが世界と関わりを持つ基本にあってほしいのです。だって答えを覚えるように世界を理解する(=生きる)のって楽しくなさそうですものね。