大人はみんなウソつきや!

こどもって面白い

 プレイスクールでは今年の夏も小学生を対象に、合宿型プログラム「夏の分教場」を行った。低学年向けの2泊3日と高学年対象のプログラムの内容も体力勝負な4泊5日まで、標高550mの高原の施設にわれわれリーダーが陣取り、入れ替わり立ち代わりやってくるこどもたちを迎え撃つ(?)というスタイルで行っている。

 ここではボクは校長先生兼給食のおじさん役となっていて、いち日のほとんどの時間を厨房で過ごしていたりする。こどもたちが海で遊んでいるときなどは、お昼ごろにでかい寸胴と5升炊きの炊飯器を車に積み込んで山から海へとカレーライスのケータリングをしたりもする。なので、ボクが海に行くのはこのときくらい、ひと夏のうち2、3回のしかも1時間ほどだったりするのに、夏の分教場が終わってみるとボクが誰よりも黒かったりする。これではひと夏仕事もしないで遊んでばかりいるみたいでどうにも具合が悪いのでこの場をかりて弁明しておこうと思う。今年は泳ぐ気満々で浜辺に行ったら、ケガしたこどもがいて泳ぐ間もなく病院に付き合ったり、前夜にケガしたこどもと病院にいったりして、さらに泳ぐ回数が少なかったにも関わらず、やっぱりかなり黒い! 吸収率の差かなぁ…

 さて、夕方になって海で遊んで帰ってきたこどもたちが高原に戻ってきた。そしていつも決まってこのくらいの時間になると厨房をのぞきに来るこどもがいる。

「なぁなぁ、今晩のごはん何なん?」「う~ん、それは教えられへんなぁ」「そんなんいわんと教えてぇなぁ」「知りたい?」「うん、知りたい?」「今晩のおかずは、トカゲのから揚げとアリのスープや!」「そんなんウソや!」「ホンマやって! ケンちゃん、アリのスープの味見してみるか?」「うそや! もう大人はみんなウソつきや!」

 そう実はウソつきというわけではないが、人間の会話というやつはかなりいい加減なものだという話がある。情報伝達という意味からみると、どうでもいいような話ばかりしていて、正確さに欠けるのだそうだ。まぁこどもとの遊びの中での会話なんてそれに輪をかけたようなものだ。きっとその子はとってはごはんのメニューなどどうでもよく、とにかくお話をすることを目的に厨房に顔を出し、学校給食の献立表のような答えが返ってくるなんて期待もせずに、こちらに言葉のボールを投げているのだ。で、ボクも料理をしながら、また適当なことをいいながら言葉のボールをこどもに投げ返す。

 これってまるでジャズの演奏と同じだ。アドリブでお互いに音のやり取りを楽しむことにこそ、ジャズの本質はあるような気がする。こどもとの会話もきっとその話の中身ではなく、そのやり取りを楽しむということにこそコミュニケーションの本質があるように思ったりもするのだ。

 翌日の夕方、同じような時間に厨房の外には昨日と同じこどもが立っていた。

「なぁなぁ、今晩のごはん何なん?」「う~ん、それは教えられへんなぁ」「そんなんいわんと教えてぇなぁ」「知りたい?」「うん、知りたい?」「今晩はな、この大きなお鍋でケンちゃんをぐつぐつ煮て食べるねん! ケンちゃん何味にしてほしい? しょうゆ味? それともケチャップ味?」「もぅ~っまたうそや! もう大人はみんなウソつきや!」

 しかし、この会話だけ切り取ってみるとかなり「虐待」な感じがしますが、ここに至るまでの流れやこどもとの人間関係ってもんがベースにあるので誤解のないように! それと同じく、ボクがひどく日焼けしているのにも流れってもんがあるので誤解なきように!

(2010/09月号)

蛇足
 少しばかりお知り合いになったベーシストの方に、ジャズでのアドリブのやり取りについてお話を伺ったことがある。この方、他の奏者が繰り出すアドリブにいつもニコッと大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべられ、それがまたズルいくらいステキなのである。「おおっ、そう来たか!…ならばこれでどうじゃ!」「ほほーっなるほど…ではこのように!」などとコミュニケーションを楽しんでおられるように感じるのだ。ただアドリブはいうものの、好き勝手にしていいわけではなく、一定のルールなりキマりごとの上に成り立っているわけで、さらには相手がこう返してくるであろう含めた上で音を紡ぐのだそうだ。もちろん大前提としてミュージシャンみんながいい演奏を作ろうという思いと信頼関係がベースにあってに違いない。
 さて大人は嘘つきであるという真実に到達してしまった彼は、どんな大人になるのだろう。きっと彼のことなら、こどもと円滑なコミュニケーションができる「嘘もつける」いい大人になってくれると思う。

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