当たり前にあるもの

こどもって面白い

 風車棟の片隅に壊れたレジスターが置いてある。知り合いのお店でいらなくなったものをいただいてきておもちゃとして置いてあるものなのだが、幼児から小学生まで結構幅広い年齢のこどもたちがいじくりまわしては遊んでいる姿をよく見かける。昔ながらの数字のキーを押すものなのだが、お店屋さんの気分になれるのが楽しいのか、それともキーを押すという行為が面白いのか…しかし、よくよく考えてみれば、今じゃこんなレジスターよほどの田舎のお店にでも行かなければ目にすることもないだろう。

 あるお母さんが言っていたが、こどもをスーパーに連れて行くと「お母さん、ピッ行こ!」といってお菓子を手にレジに向かうのだそうだ。そうかぁ、今の時代レジは「ガチャガチャチン」じゃなくて「ピッ」なんだと妙に納得したことがあった。

 幼児クラスで作る紙箱のカメラもいつの間にかデジカメになって、箱に液晶画面が切ってあって中には撮った写真(紙に自分で絵を描く)が入っているというスタイルに変化した。そして、そのカメラを構えるこどもはファインダーじゃなくて腕を伸ばして液晶をのぞき、「はいチーズ!ピッ!」と、ここでも「カシャ」じゃなくて電子音だったりする。

 20世紀はモノの時代で、21世紀は情報の時代だといわれる。たしかにわれわれ大人(大人といってもかなり古い世代だと思うけど…)がこどもの時には、何かしら新しいモノが家庭に入ってきて生活が劇的に変化するということがたびたびあった。それは例えば、白黒テレビが居間にどか~んとやって来たり、東京オリンピックの頃にはそれに色がついてカラーテレビ(もちろん観音開きの扉付き)になってたり、マイカーが来たり、短波放送が聴ける自分だけのラジオを買ってもらったり、クーラーがついたり、オーブンや電子レンジが台所についたり、今にして思えば非常に単純なブロックくずししかできない「テレビゲーム」なんてものがやって来たりした。

 そしてそのたびに「科学」ってすごいや、「世界」ってこんなわくわくすることがいっぱいあるんだと感動していたのをよく覚えている。何もなかったところにある日突然、とても便利で世界につながれるモノが来たりするのだから、こどもにとっては驚愕と感動以外の何ものでもなかったのだった。

 そのころに比べれば今の時代は格段に便利になっているようには思うけれど、今のこどもにとっては実はすべてのものは「すでにある」状態なのではなかろうか。無から有を生じるような劇的な感動というものはないように感じるのだ。確かに小さくなったり、速くなったりと「差異」いうような変化はあるかも知れないが、ある日突然というような世界の現れ方はしない。このことはひょっとするとこどもたちが世界と関わるメンタリティーに大きな影響を与えているように思ったりもする。「すでにある」ことで、「世界」に対してわくわく感が持てないとしたら、それはとても悲しいことではないか。

 だからといって今さら不便な生活に戻りましょうと言っているのではなくて、われわれ大人と今のこどもたちではきっと「世界」に対するとらえ方や距離感が違うのだということを確認しておいたうえで、こどもたちを見た方がいいだろうということだ。そして、大人がどのようにこの「世界」を魅力的なものとして、こどもたちに提示することができるかという問題でもあるのだ。モノに頼らずに世界のわくわく感を伝えるにはどうするのか…われわれは大きな宿題を抱えてしまったようだ。

 こどもが箱のデジカメで撮った写真(絵)を見せに来てくれた。お山にトンネルのような穴がふたつ開いているその写真は、実はリーダーの鼻のアップなんだそうな!
 やるやん! やっぱり世界をわくわくさせてくれるのは<遊気>かなぁ!

(2006/01月号)

蛇足
 あぁ、爺ぃのざれごとですなぁ。人間が古くてすみません。いや今も「世界」はわくわくしていますよ。メタバースもチャットGPTもあるし、空飛ぶ車も出来そうだ。結局は慣れ親しんだ生活に満足(ついていくのにいっぱいいっぱい!)なので、これ以上新しいものはいいやという気分になっているのかも知れません。
 「重厚長大」から「軽薄短小」、さて次はどんな時代になるのでしょうね。進歩発展も大事、でも「吾唯足知」も大切なんじゃないかなぁ…

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