早く咲いても、遅く咲いても、桜は桜

こどもって面白い

 今年は春の訪れが早い。日本各地から記録的な速さで桜の開花の便りが届き、すでに満開との話も聞く。いったい地球はどうなってしまったんだろう。この分じゃ入学式や入園式の頃には花も散ってしまって青々とした葉桜になっていることだろう。桜とともに入学式を迎えるなんとイメージはもう過去のものなのかも知れない。これも地球温暖化の影響なのだろうか。

 実は明治時代に学校制度が始まった頃には、日本も欧米と同じく9月入学だったらしい。これが4月に変わったのは、別に気候が良いからでも桜の開花に合わせたわけでもなく、徴兵制度や会計年度が4月始まりに変更されたことに合わせたためだと言われている。別段、桜が咲かなくても春は春でやってくるのだし、こどもたちの新しい一年間は始まるのだけれど、やっぱりわれわれにとって桜は特別なのだろう。

 桜が花を咲かすだけではなく、春はこどもたちもぐぐっと成長する季節だ。ひとつ年長になって立場が変わることが、こどもたちを変えてくれるようだ。たった一ヶ月前とは比べものにならないような成長は、ホントに目を見張るものがある。きっと桜が咲くように、待ちに待ってある日突然に花開くのだろう。プレイスクールにやってくる幼稚園の年長さんたちも、何やら自信に満ちた態度で、年下のこどもたちにプレイスクールにはどこに何があってどんなことをして遊ぶのかを教えてくれていたりする。たまに巻き舌でちょっとえらそうな口ぶりなのもご愛敬といったところか。

 もっともみんながみんなこの時期に花開くわけじゃない。まだつぼみのこどももいて、夏休み前か秋にポンっと花を咲かせるこどももいる。こどもが10人いたら、きっとこどもの春は10通りあるのだ。われわれはこどもの成長を見るときに、ついつい「年齢や平均」と比べてしまいがちだが、平均的な大人がいないように平均的なこどもなどたんなる数字に過ぎない。こどもは決して直線的に右肩上がりには育たない。こどもは連続的にではなく、ある時突然「非連続的」に育つものなのだ。もっといえば、こどもたちは「量的」に成長するのではなく「質的」に育つのだ。それはまるで蝶が幼虫からサナギになり、羽化して翔び立つような育ち方な育ち方だ。

 ところで、桜といえばほとんどの場合ソメイヨシノを指すことが多いのだが、この種類は江戸時代の人工的に造られたといわれている。そしてソメイヨシノは花のあとに小さな実もつけるけれど、その種からは次の世代は育たないのだ。いま日本中にあるソメイヨシノは、すべて接ぎ木で増やされたもので、何とすべての木のDNAは同じ、つまりクローンなのだという。ある地域で同じ時期にいっせいに咲いて、いっせいに散るのはこの遺伝子のせいらしい。

 今年は満開の桜の花の下で久しぶりのお花見を楽しむひとも多いことだろう。そして、盛りを過ぎていっせいに春の風に花びらを飛ばす桜吹雪も美しいものだが、こどもは桜とは違ってひとりひとりが違うDNAを持っているのだし、それぞれに違う花のつけかたをするのだ。桜にもオオヤマザクラやヤエザクラがあるようにも、こどもにも早咲きの子も遅咲きのこどももいる。いつか満開に花開く日をじっと待っているこどももいる。
 そう、早く咲いても遅く咲いても桜は桜。こどもたちが花開く日をボクたちもじっと待つこととしよう。

(2012/05月号)

蛇足
 蝶のサナギは幼虫の体をドロドロにして成虫に作り変えるのだという。メタモルフォーゼ、きっとこどもたちは小さい体のなかでそんな変化を毎日積み重ねて、ある時突然に変わった姿を見せてくれるのでしょう。ボクなど日々のメタモルフォーゼでできないことばかりが増えるのですが…これも成長?

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