その昔、子どもたちは群れて遊ぶものだった。この「群れ」も時代とともにそれを構成する人数は違っていて、団塊の世代といわれてる人たちが子どものころはきっとビックリするような大人数の「群れ」の中で遊んでいたに違いない。徐々にその「群れ」は小さくなって、そして今では群れることすらできないほど子どもたちの数は減ってきているし、群れて遊ぶ時間もないほどに個々の子どもたちが忙しくなってしまっている。
子どもたちは群れて遊びながら、群れの中で育つ。先日、新聞に面白い記事を見つけた。曰く、アブラムシをぎゅうぎゅう詰めの空間におくと成長が鈍る。そこで一匹だけの広い空間に移すともっと成長が鈍くなるという。ヒゲを動かすととなりのアブラムシのヒゲに触るくらいがちょうどいいらしい。
実はこれと同じような話を知り合いのお百姓さんから聞いたことがある。それは大根だったかにんじんだったか何かの根菜類の話で、畝に筋状に種をまいて成長とともに少しずつ間引いていく時に、常にとなりの苗の葉っぱが触れるくらいの間隔にしておいてやるととてもよく育つのだという。
その意味では、団塊の世代にの子どもたちがうじゃうじゃとひしめきあって群れていた時も、群れることができない今の時代も、子どもたちの成長にとっては決してベストな状態とはいえないということなのかも知れない。
ところで、子どもたちと森に出かけて遊んでいるとき、あちこちで子どもたちがじゃれ合いながら遊んでいるさまを見つつ、ふと「あれっ?これって?動物園の猿山?」などという不謹慎な感覚に襲われることがあったりする。ここは遊び場だから、何かの目的のためにここにいる集団ではなく、まさしくこれこそが「群れ」そのものだろう。じゃれ合いながら木々の間を追いかけっこしたり、マットの上でレスリングをしたり、つまらない冗談で笑い合ったり…ときには冗談が過ぎてケンカになることもあるけれど、そんなことも経験しながら、子どもたちは他者との距離感をはかる術を身につけて行くに違いない。
それにしても子どもの話をするのに、ものの例えとはいうもののアブラムシや大根や猿山のサルとは失礼千万な話である。しかしものは考えようで、アブラムシのようにたくましく(?)、大根のように太くまっすぐに(?)、サルのような智慧を身につけ(?)育って欲しいものである。(う~む、まったくフォローになっていない…)
近すぎず遠すぎず、寄り添っているようで離れているようで、それでもどこかで支え合っている、そんな絶妙の距離感覚の中で子どもたちが育っていくために、ボクたち大人はどうすればいいのだろう? 大人こそがアブラムシやサルに弟子入りしなきゃなんないのかなぁ!
(2006/11月号)
ちょっと解説…
こどもたちがリアルに「群れ」られない状況もさることながら、ネットとコロナで一気に広がった「リモート」でのコミュニケーションもきっとこどもたちの育ちには大きな影響があるような気がしますね。画面の中の人と言葉でのコミュニケーションはできても、細かい表情やしぐさなどから相手の心情を「察する」ことは出来ないでしょう。もっというと「察する」ことで他者を理解しようとする関わり方こそが大切な気がするのです。ウィズコロナの時代、リアルに群れることは復活するのかなぁ?
参照:「現代のことば」鷲田清一(京都新聞2006/10/11)