鳥に飛ぶ空

こどもって面白い

 その子は一枚の絵画の前に立ち止まると、右からながめ、左からながめ、少し離れてながめてから、絵の下に座り込んで絵を見上げて考え込んでいた。いや、正確には彼の存在のすべてをかけて、この絵と格闘しているかのようだった。しばしの時間ののち、にやりと微笑んで彼は次の絵の前に移っていったのだった。きっと彼の頭に吹き出しをつけたならば、こんな感じではないだろうか。

 『う~ん、ふんふん、むぅぅぅ~…なんでやねん!…ほほぉ~、そらないやろ!…う~ん、そんなんありなん!…でも、おもろいやんけ!』

 芸術の秋、シュールレアリズムの画家、ルネ・マグリットの絵画展を観るためにこどもたちと美術館にやって来た。美しい景色描かれているが何かが違う。一枚の絵に昼と夜が混在していたり、巨大な岩が空中に漂っていたりする。 静物画もグラスが家具より大きかったり、人物画では肌に木目が浮いていたり、岩でできた人だったり、顔が布で覆われて表情が見えなかったりする。元とは違う組み合わせや異なる素材での表現、遠近法や大きさのデフォルメ、ねじ曲げられた時間軸など、これらはシュールレアリズムでよく使われるデペイズマンという手法だ。予期せぬ意外な組み合わせは、観る者に常識が通じない不安感、奇妙さ、居心地の悪さを感じさせる。

 常識を揺さぶられたとき、人はふたつの反応をする。あくまでも常識にとらわれてそれを拒否するか、そんな見方もあるのかと受け入れるかのどちらかだ。われわれ大人はややもすると常識から逸脱できなかったり、何かと解釈することで受け入れたふりをしたりする。でもこどもはいとも簡単に常識の枠を超えてその変化を楽しめるようだ。まだ常識を知らないともいえるが、許容することを恐れていないともいえる。何たって彼らは日々自分の殻を破りながら変化し成長し続けているのだから、違う世界と出会うことは楽しいことなのだ。常識と戦いながら創作を続けたかの岡本太郎はこう言っている。「大体、いちばん素晴らしい絵を描くのは、4、5才くらいのこどもだよ。」そう考えれば、マグリットや岡本太郎、ピカソらの絵を頭ではなく身体まるごとで理解できるのがこどもなのだ。

 実はボクが京都でマグリット展を観るのはこれが2回目だ。本格的な展覧会は何と44年ぶりなのだという。そのころまだ小学生だったボクは友だちと一緒に電車に乗ってこの美術館まで来たのだった。どの絵もとにかく衝撃的で面白かった。ひとつひとつの絵と格闘をしながら観て回った。冒頭のこどもの頭の中の声はそのときのボクの心の声だ。そして同じようにマグリットの絵と格闘しているこどもは、きっと昔のボク自身なのだ。時代を超えて観る者の魂を揺さぶり続けるマグリットの絵はやっぱりスゴイ。常識にとらわれないことからしか新しいことは生まれないということを再確認させられた秋の一日だった。まだまだこどもから学ぶことは多そうだ。

(2015/11月号)

蛇足
 こどもたちと一緒に現代アートの展覧会にもよくあそびに行きました。企画名「アートでござ~る」とふざけた名前ですが、敷居の高そうな現代アートを身近に感じてもらえればという趣旨で行っていました。興味を持った作品には無意識に近づきたくなるもの、さらには手を伸ばそうとする者もしたりして、美術館の監視員(?)の方を慌てさせていました。すみません。こどもたち戦いの真っ只中なものですから。
 先日、川崎市にある「岡本太郎美術館」を訪れる機会がありました。こども以上にこどもな太郎の作品の数々はやっぱり面白いです。太郎の時代が自由だったのか、今のわれわれが自由であることを諦めてしまっているのか。考えさせられた時間でした。

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