この春はいつもよりも多くの一年生たちが発明クラブに入ってくれた。幼児クラスのときにも何回かは工房を使ってもの作りはするけれど、小学生の発明クラブでは工房で自分の好きなものが作れるのだから、もの作りが大好きなこどもにとってはたまらないのだ。しかも工房の棚にはこどもたちにとってはとても魅力的な素材がいっぱい並んでいる。まるで夢の国だ。今はどの棚のどの引出しにどんなお宝が眠っているのかを確認している段階なので、かわいい家を作りだしたのはいいけれど、次から次へはいろんな素材をひっつけまくった結果、傍目にはゴミ屋敷のような作品になってしまうことも多々あったりする。まぁ本人が気に入ってればOKだし、アートってやつは理解しにくいことになっているからいいんですけど…。
そして、そんな工房で男の子たちがまずは作りだすのが、とりあえず武器だったりする。世の中、草食系男子が増えているともいうが、剣とか弓矢とか鉄砲とかいった武器には男の子をひきつける魔力があるのである。狩猟時代の遠い記憶を体が覚えているのか、それとも昔ながらのジェンダーとして刷り込まれているのか、はたまた戦隊モノの影響なのかは定かではないが、とにかく「強いもの」にあこがれ、それに近づくために武器を手にするという、実に単純極まりない論理であり、あらがうことのできない性にからめとられてしまうわけだ。
当然のごとく「危ない」とか「ケガの原因になる」とか「好戦的な性格になるのではないか」などというご批判もあるのだろうが、「チャンバラごっこ」とか「戦いごっこ」はいつかは卒業する遊びなのだし、実はこの遊びには「愛」がなければ成立しなかったりするのだ。
新聞紙や紙の剣から始まった武器作りは、ベニヤ板から角材に近いものにだんだんとエスカレートしていくのが常だが、当たり前のようにそんな剣をブンブン本気で振り回したら戦いごっこは流血戦になってしまうことくらいこどもでもわかっている。だからゆっくりとした動きで力加減もほどほどに刀を交えるのが暗黙のルールなのだ。そこには相手にケガをさせないような気遣い、つまりは愛がなければならないのだ。
ところで、発明クラブの一年生たちの作る武器がなかなか面白い。いまはまだ木を加工する技術もあまりないので、棒に工房の素材をテープでひっつけたり糸で結びつけたりしただけのものでも彼らにとってはスゴイ武器なのだ。それを持って友だちと戦いごっこが始まる。戦いには力加減のルールの他に、お互いに勝ったり負けたり、やったりやられたりすることも大切で、片方が勝ち続けてしまうと遊びとしてはつまらなくなってしまうのだ。でも、そのへんの加減も経験的に学んでいくしかない。
A「エイっ!シャキ~ン!…おい斬ったぞ」
B「バリア~っ!…斬られてへんも~ん!」
A「ならばこうだ!ズバっ!…」
B「へへ~ん、この服は超合金なのだ」
A「ずるぅ!これでどうだ!ジュキィ~ン!」
B「ふふふっ実は俺は魔法が使えるから、やられないのだ!」
しばらくこんなやりとりが続いたのだが、Bちゃんのあまりにも一方的なルール設定にさすがのAちゃんも堪忍袋の緒が切れて、本気のパンチとキックとともにひとこと「おまえはこどもかっ!」。一年生同士のこのやりとりには笑ってしまったが、早く愛のこもった戦いごっこができるようになってもらいたいものだ。
ちなみに発明の高学年男子たちの戦国武将ラブから始まったチャンバラごっこは、徐々に小芝居の様相を呈していて、最近では赤い絵の具で額から流れる血まで再現しつつ、いかにリアルに斬られるかを研究していたりする。彼らがこの先「東映・太秦映画村」に向かうのか、それとも吉本で「シン・チャンバラトリオ」の復活を目指すのかは、まだ誰にもわからない。
(2010/06月号)
蛇足
痛くないように力加減をするとか、やったやられたの頃合いを身につけるというのは、リアルな世界でないと身につかないように思います。この相手に想像力を向けられるかどうかって、生きていく上でとても大切なんじゃないのかなぁ。
ところで古い人間なんで不案内ですが、画面の中の戦闘ゲームでも力加減なんてできるんですかね?