子ども素粒子論

こどもって面白い

 小学生クラスのお出かけプログラムに行ったとしよう。駅前で集合してお母さんたちにバイバイをして、階段を上がって改札へ。そこで「ちょっと切符買うから、みんなここで待っててな。じっとしててや」というリーダーの声に、「はーい」というよい返事が返ってくる。券売機で人数分の切符を買って振り向くと…いるべきところにこどもはおらず、キヨスクに並ぶお菓子のどれがおいしいかで激論を交わすこどもたち、自動販売機にお金もいれないで片っ端からボタンを押しまくっているこどもたち、目の不自由に人用の音声案内版に興味津々のこどもたち、中には切符も入れないで改札を通り抜けられるかを試そうとしているこどもたちもいたり…みんなてんばバラバラな状態になっているのだった。われわれの業界ではこのような状態を「こどものブラウン運動」と呼んでいる。こどもは放っておくとそれぞれの興味のままに拡散していくというよく知られた法則である。

 幼児クラスの活動で絵本を読んだとしよう。「さぁ、今日はこの本にしようかな」「それ知ってるぅっ!」「家にあるもん!」とお決まりの文句をいってくるこどもも、いざお話が始まると絵本にくぎ付け。身を乗りだしお話に反応する身体、お話の通りの喜怒哀楽を見せる表情、じっと一点を見つめる目に迫られながらお話を読む。まるで絵本が近くにいるこどもたちを吸いこんでしまうブラックホールのように感じる。いやきっとこどもたちの身体はここにあるけど、彼らの心はすでに強力な磁場を持つ絵本のブラックホールに吸い込まれているに違いない。「おしまい」と絵本を閉じるとこどもたちはブラックホールからこの現実に戻ってくる。「今度は違うのにして」と憎まれ口を叩きながら。

 冒険クラブで森に出かけたとしよう。基地についてそれぞれのこどもたちが友だちと一緒に遊び出す。みんなで遊ぶこともあるし、いくつかのグループにわかれて遊んでいることもある。リーダーが誘いかける遊びに乗ってくる子もいれば、数人でふらっと森の奥に消えていく子たちもいる。みんながそれぞれある意味バラバラに動いているのだけれど、その場から離れるにはある程度の抵抗が生じるようで、まったく勝手にどこかに行ってしまうこどもはいない。適当な距離を感じながら、ある時間になると戻ってくるのだ。ある時間とは、おやつの時間に決まっている。それはまるで今話題の「ヒッグス粒子」の作用で物質が動きにくくなって質量を得るように、おやつの匂いに引き寄せられて整然と一列に並ぶこどもたちの姿は、まるで分子モデルのようにさえ見えるのだった。

 もちろんこんな自由な振る舞いをするこどもたちも、しなきゃいけない場ではきちんと整列もできるし、静かにすることもできるに決まってる。ではプレイスクールと何が違うのか。きっと「場」が違うのだろう。プレイスクールという「場」には、<遊気>というエーテルが満ちているのだろう。

(2012/01月号)

 昨日は12年目の3.11でした。もと文章はちょうどその頃のもので、最後はこんな言葉で結んでいました。
”激動の2011年が幕を閉じようとしている。東北地方を襲った大震災、そして原発事故、円高、タイの大洪水、近畿南部での台風被害。そしてそんな一年を表す漢字が『絆』なのだという。いざとなったときに人とのつながりこそが、慰めであり救いであり、そして明日への希望につながるのかも知れない。プレイスクールという場を通じて、こどもたちや大人たちの絆を深めるきっかけ作りができればいいなとこの年の瀬に感じています。”

蛇足
 ブラウン運動の説明では「水中で花粉が動く」と例えられることがあるが、本当は「花粉から出た細粒子が、溶媒(水分子)の熱運動によって不規則に動かされている」とのこと。自分の意志でふらふらしているんじゃなくて、まわりから押されていてるわけですね。では駅のこどもたちは何に押されていたんでしょうね?
 「素粒子論」などと偉そうなことを申しておりますが、文系のまったくの素人のただの感想に過ぎませんのでくれぐれも信用されませんように。

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