冒険ってなんだ

こどもって面白い

 「今日の冒険クラブはいつもの道じゃなくて森の中を歩くぞ!」「え~っ! いつもの道を歩いたらええやん」「いやいや冒険クラブたるもの、ときには困難な道を進まなければならないこともあるのだ」「そんなぁ…楽な方がええねんけど…」などと何かにつけて文句の多い6年生たちだが、いざ森に入ってみるとすたすたと先に進んで行く。道から少し分け入っただけで様子は一変、ヤブを迂回したり倒木をくぐったり乗り越えたりしながら歩いていく。いやぁ冒険らしいなぁ。

 プレイスクールの周りの森は、広そうだが実は住宅地とゴルフ場に囲まれていて意外と狭い。狭いながらも、川も池もあるし、適当な起伏もあるのでこどもたちの活動には十分すぎるフィールドだ。普段は森の中の開けた場所、通称基地と呼んでいるところで過ごすことが多いし、そこまで行くのにもいつもは歩きやすい山道で移動しているので、たまには道を外れてまだまだ未知なる森があることを感じてもらおうという魂胆なのだ。

 冒険や探検という言葉には何かしらの魅力がある。もちろんこどもたちとの森歩きなど冒険と呼ぶにはおこがましいが、自分の足で行ったこともないところに赴き、自分の「世界」を広げるという意味では、こどもたちにとってはこれでも十分に「冒険」なのだ。では命懸けで未知なる世界に踏み出す探検家にとって、冒険とはどのようなものなのだろう。

 探検家角幡唯介の考え方はこうだ。「昔の冒険は地図に載っていない混沌とした世界へ行くことだったのだろうが、いまや科学テクノロジーの発達によって全世界は地図に落とし込まれ、GPSというシステムによってどこにいても居場所がわかるようになって混沌とした世界がなくなってしまった。そのような時代において冒険とは、人間の社会通念や常識、倫理や価値観、システムのむこう側とに飛び出すことではないのか」角幡はそんな考えのもと日中でも太陽の登らない暗黒の「極夜」に向かう。しかもGPSを排してコンパスと星だけを頼りに一匹の犬とともにソリを引きながら漆黒のマイナス40℃の世界をさまようひとり旅を続ける。

 途中、六分儀(昔の船乗りが使った星を目印に自分の位置を特定する道具)を嵐で失ったり、補給用の食料を白熊に食べられてしまったり、道に迷いながら何とか出発した村に戻ってくる。80日間の旅の最後に氷の地平線から昇る太陽を目にした彼は「ついに太陽が見えました。赤々と燃えてます、地吹雪の向こうに太陽が。何かいろんな事があり過ぎて、もう言葉になりません……。こんなにすばらしい太陽が見られると思わなかった……」と声を絞り出す。

 世界一高い山に登るわけでも北極点に立つわけでもなく、暗くて寒い極地をひとり彷徨うという行為はギネスにも載らないし栄誉を得るわけでもない。だが彼の論理からすれば十分に冒険であり、何よりシステムに身を守られることなく、生身の体で自然と向き合うことこそが彼にとっての冒険の本質なのである。

 こどもたちと森を迷子になっていると、一年生の女の子が疲れ切った顔でこう言った。「もうこんなとこ連れてこないでよね。体と心のスイッチが切れちゃうじゃない!」きっとその子も探検家と同じように小さい体で自然と対峙していたのだろう。そのあとたどり着いた森で、その子は友だちと嬉々として遊んでいた。倒木に登り、揺れる枝に乗ってゆすっては遊んで、帰るころにはもうケロッとしていた。きっと遊びがこどもにとっての太陽なのだ。

(2019/01月号)

蛇足
 葉の茂っている季節、森の道からほんの10メートルも森に分け入ると、それだけで自分がどこにいるのかわからず不安になります。冬ならば光も入り、目印の鉄塔や送電線で居場所がわかるのですが…いかに普段の生活では限られた安全な場所で過ごしているのかを痛感します。
 慣れ親しんだ森ですらこんな具合なのですから、右も左も雪原、しかも太陽は地平線の下にしかない世界に身を置くことは想像を絶する体験です。読んでてちょっとしんどくなるけれど刺激的です。
 「極夜行」角幡唯介(文藝春秋/文春文庫)

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