先日、こどもたちとハイキングに行ってきた。プレイスクールから山伝いに歩いて、帰りは電車で戻って来るよく歩いたことのあるコースだ。しかし、久しぶりに歩いたので、途中に新しい道路ができていたり、山が造成されていて景色が変わっていたりして、進む道がわからくなくってしまった。「あれれ? ここ、こんななってるやん。どっち行ったらええんやろ?」と困惑しているボクにある子が言った。「道わからんようになったん?…でもハイキングってそんなもんちゃうの」おおっ何と前向きなご意見! いっしょに歩いているこどもたちを見ていると、じつに楽しそうに歩いている。道端に落ちている長い木は剣になり、ゴミのペットボトルはサッカーボールとなり、川があれば生き物を探す。でもたいてい大人が感動するような景色などには無関心だったりする。たぶんこどもと大人は興味のアンテナの方向が違っているのだろう。大人は最短距離で目的地まで進もうとするけど、こどもたちは歩きながらいろいろなものを発見することを楽しんでいる。いやひょっとすると目的地などというものすら、彼らの頭の中にはないのかも知れない。
ところで、新しい文部科学大臣が学校週6日制復活を検討しているという話が新聞に載っていた。ゆとり教育について十分な総括もないままに、学力向上を理由に公立学校で土曜日も授業をするのだという。勉強時間を長くすれば学力が上がるに違いないという発想は、何やらどこかの高校のクラブの顧問がしていたであろう体育会系のノリみたいな気がしてならない。そのうちにちゃんと勉強しないこどもには体罰も辞さないなどといい出しそうで物騒この上ない。
しかし、ここまで浸透した土曜日休みを変更するのはなかなかたいへんそうだ。だいたい週5日制が始まったころといまで社会状況が違っている。月1回の試行がスタートした1992年には、世の中の大多数の会社はまだ週休2日制にもなってはいなかったので、学校にも家庭にも居場所がないこどもたちをどうするのかということが大問題となったのだった。そのための「社会的受け皿」を何とかしなければならないという話になり、デパートのバックヤード見学や遊園地の割引、はてはビリヤード場やカラオケボックスの割引なんていう受け皿に行ったら不良になっちゃいそうな話まであったのだった。大人たちはそんなふうに大騒ぎしていたのだけれど、中学生の土曜の休みに何がしたいのか第1位は「寝てたい」だったように記憶している。実際には寝てるどころかクラブや学習塾で忙しくなっただけみたいな気もする。
学校の先生にとっても、いきなり土曜日も授業しなさいといわれても、それでなくてもいろいろな用事で日々忙しく、師走なんて12月だけの話じゃなくて一年中走ってますという先生も多いわけで、選挙に勝ったからってそんなころころ話を変えてもらっちゃ困りますよ、という方も多いはずだ。
当たり前だけれど、こどもたちがもっと授業時間を増やしてほしいといったわけじゃないし、すべては大人の都合と勝手でものごとが決まっていく。その判断で大事にされているのは国際競争力や大人の面子で、当事者のこどものことはどこかに置いてきぼりだ。きっと本当は、世界で一番高いところに最短距離で登ることが学校や教育の目的ではなく、道草をくいながらでもいろいろなものごとや人や世界と出会いながら人間として成長していくことが大切なのだ。いっしょに山歩きをしたこどもたちのように!
ところで本当に土曜日に学校が始まってしまったら、土曜日に活動しているわれわれはどうしたらいいのだろう? こどもは忙しそうやから、会社がお休みのお父さんたちと遊ぶことになるのだろうか? 朝から宴会…まぁ何て素敵な!
(2013/02月号)
蛇足
「ゆとり世代」とひとくくりにされ何かと批判をされたりしました。○○世代と称して色付けすることは世の常、ボクなんぞは「新人類」などと呼ばれたりしましたが、今じゃ「旧人類」です。まるでネアンデルタール人ですね。でも現生人類のDNAにも旧人類のDANが影響しているという指摘もあるので、世代で分けることは無意味なことなのでしょう。眼の前のひとをしっかり見ることが大切ですね。