幼児クラスで箱工作をしたときのこと。ボクはグルーガンでホットボンド屋さんをしていたのだけれど、ある男の子がお菓子の紙箱に透明なプリンの容器をつけてくれと持ってきた。「これ何になるん?」と聞くボクに「これな、防犯カメラやねん!」とその子は答えてくれた。「へぇ~、防犯カメラなんや。悪いことできひんね」と話しながら、幼稚園のこどもの会話に防犯カメラという言葉が出てくる時代になったんだとちょっとびっくりしてしまったのだった。
いまや日本国内には500万台以上のカメラがあるとも言われている。正確な数字は誰にもわからないのでひょっとしたらそれ以上あるのかも知れない。これに車のドライブレコーダーやスマホのカメラ、ドローンまで加えたらとんでもない数のカメラに囲まれて暮らしていることになる。繁華街はもちろん、交差点からコンビニ、家庭にいたるまであちこちに設置されていて、防犯や犯罪捜査に役立っていることは昨年のハロウィンの渋谷でちょいと羽目を外した若者たちがすぐに捕まった例をみても明らかだろう。あれだけの人混みの中でも特定できる顔認証システムなどテクノロジーはすごいところまで進化を遂げている。
街に防犯カメラがつけられだしたころには、プライバシーの侵害だとか監視社会の到来だとかの反対意見もあったものだが、いまやそんなことを言う人もおらず、地域の安心と安全のためにつけましょうという論調が大勢を占めている。いずれにせよすでにどこに行っても誰かに見られている社会にわれわれは生きている。
その昔、ボクがこどもだったころには街にそんなカメラがついていることもなく、こっそり悪いことしようとしたときには、周りの大人たちから「誰も見てへんと思うても、神さんが見てるんやで」なんて言われてとがめられたものだ。社会的な存在とされる人間はその行動の善悪にも他者の存在が前提とされているし、時には超越的存在に頼って規範を伝えてきた。それほどにも人の心は弱いってことかも知れない。心理学にこんな実験がある。大学のロビーにコーヒーを入れたポットを置いておき、飲んだ人は箱にお金を入れるようにしておく。見張っているものは誰もいないのでもちろんお金を払わないものもいる。このときコーヒーのポットに人の目の写真を貼っておくと支払額が3倍になったというのだ。「見られている」という意識は人の行動に実に大きく作用するらしい。
街中いたるところにカメラが設置された現代社会、考え方によってはカメラが神さんに取って代わっているとも言える状況だ。でもなぁ「人さまが見てなくてもカメラが見てるよ」とはこどもに言えないなぁ。だって人さまや神さんには「愛」があるけれど、カメラの冷たいレンズの奥にはやっぱり「権力による監視」しか感じられないからだ。時代はジョージ・オーウェルが描いた『1984年』のような監視社会にどんどん近づいている。そのうち幼児クラスの工作で顔認証システムとか生体チップとか作りたいと言い出されたらどうしようかというのが、目下のボクの不安なのだ。
壁に耳あり障子に目あり、街に車にドローンに目あり、とかく世間は住みにくい
(2019/06月号)