『勉強も大事、でも遊びも大切…キミ、いっぱい遊んでる?』

アドベンチャー

 新年最初の活動は、お正月らしく羽子板で遊んでみた。とはいっても、羽子板はダンボールから切り出して作ったものだし、羽根は使えなくなったバドミントンのシャトルにスズランテープをつけただけのものなので、おおよそお正月らしい華やかさなど無縁の道具立てだ。それでもこれが意外と盛り上がって、子どもたちは飽きることなく遊んでいたのだった。

 子どもたちの様子を見ているとラリーなどまったく続かず、続いて3回の速攻勝負、時にはサービスエース、時たまサーブ打ち損じ、レシーブ空振りと、とても打ち合いを楽しんでいるわけではないのに、なぜだかきゃっきゃっと笑いながらずーーっと遊び続けているのだ。そしてそのうち羽子板は違った遊びの様相を呈していくのだった。

 男の子たちが始めたのは羽子板を使ったドッチボール、地面にコートを描いて二手にわかれて試合がスタート。ドッチボールのように打った羽根を相手に当てるというルールで、身体ではなく羽子板でブロックしたら自分の羽根になって攻撃権が交代するのだ。そのうちに羽根がひとつからふたつみっつと増えていき、内野と外野にはさまれながら逃げ惑うことになる。でもボールを手で投げるのとはわけが違って、打った羽根では目の前にいる相手にすらなかなか当てられないので、これが功を奏して白熱したゲームが展開されたのだった。何度か対戦して力の差が明らかになるとチーム分けをやり直して戦力が均等になるようにしてまた試合再開、とにかく時間を忘れて遊び倒していた。

 実はここにこそ遊びが本来持っているダイナミズムがあるのだ。自分たちでルールを自由に決めて、面白くなるように変化させ、最後はみんなが楽しめるようにする。ここには能動的で自主的な遊びがある。そしてそれは何より自由なのだ。確かにビデオゲームでも様々な展開や結果が待っているけれど、それはあくまでプログラミングされた選択肢の中から選んでいるに過ぎない。膨大な選択肢を目の前にしたとき、人は自由を感じるがそれは選ばされているだけ遊ばれているだけなのだ。なぜなら選択肢自体から自由に決めることはできないからだ。

 今回の表題は、解散した財団法人プレイスクール協会のチラシに踊っていたキャッチコピーだ。何かと便利な世の中、ゲームにネットにテーマパーク、気を付けないと遊んでるつもりが遊ばれてるなんてことになってしまいかねないからご用心ご用心!

『キミ、いっぱい遊んでる?それとも遊ばされてる?』

(2021/02月号)

蛇足
 そうとはいっても商業的に「遊ばされる」ことが「遊び」になっているのが当たり前の世の中、遊んでいる間の熱狂や興奮、全能感は変わらないのかも知れないけれど、心の片隅に遊びの本質について気に留めておくことは大切な気がします。特にこどもの頃にルールから自分たちで決めて遊ぶことは、その先世界に対して能動的にかかわり主体的に生きることに繋がるのではないかと思ったりするのです。

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