吉と出るか? 凶と出るか?

クラフト

 ガチャガチャ、カチャカチャ…やったぁ~っ、大吉や! チャカチャカ、ジャカジャカ…あ~あ、またハズレや! 工房に歓喜と落胆の声が交錯する。

 新年早々の発明クラブは、お正月らしく「おみくじ」を作ってみた。厚紙を材料に六角柱を組み立て、中にはわりばしが入れてある。簡単にできることもあるけれど、「おみくじ」作りは子どもたちには鉄板ネタで、今日もほとんどの子どもたちが作ってくれた。みんなが作ってくれるのはいいのだけれど、みんながおみくじを振り回すものだから、工房には不規則なリズムに包まれにぎやかなことにぎやかなこと。

 子どもたちの遊び方を見ていると、彼らはどうも「おみくじ」ではなく「くじびき」として楽しんでいるようだ。出てくるわりばしの色に一喜一憂し、一本しか入っていない赤色は大当たり、色なしのものはハズレというわけだ。飽きることなく何回も何回も振るのだから、そのうちに当たりが出るのは確率の問題だ。ところが中には何回も連続して赤色を出す子どもがいたりして、周りのみんなから称賛をあびたりしている。

 実は「くじびき」には当たりハズレがあるが、「おみくじ」にはハズレはない。例え大凶であろうと、人生の背中を押してくれるありがたい御神託をいただくことができるのだ。神社などのおみくじには一般的に<大吉・中吉・吉・小吉・半吉・末吉・末小吉・凶・大凶>などの種類があり、今では大吉が一番ということになっているが、かつては「平(たいら)」というおみくじが一番望まれたのだという。おだやかにそしてやすらかに暮らすことこそが人々の望みだったのだ。時代とともに刺激が求められるようになり御神託の種類も増えていった。つまり役が増えたのは人々の欲望を反映しているともいえるのだ。

 それにしても子どもたちはどうしてこんなにおみくじが好きなんだろう。われわれ大人がおみくじを引くのは、人生において何か決断を迫られていたり、将来に対する不安をやわらげてもらうためだったりするのではないか。つまりは生きる見通しに確信を持つためだ。これに対して子どもたちは、ドラマチックな偶然性や運まかせの面白さを心から楽しんでいるように見える。考えてみれば、彼らは日々知らない世界と出会いながら生きているのであり、大人のように世界を俯瞰して生きてはいない。子どもは出たとこ勝負、右も左も吉も凶もすべての運命を受け入れながら生きている。子どもは見通しのために生きてはいない。だから毎日泣いて笑って走って転んで、新鮮な感動とともに生を満喫しているのだ。

 ちなみに今年の初詣でボクが引いたおみくじは「中吉」だった。曰く「失せものそのうち出る。勝負ごと六七分勝つ。生き死に六七分生きる」という何とも中途半端なもので、この春から仕事が終わって人生の一大転機を迎えるボクはそりゃないぜと頭を抱えてしまったのだった。でも「平」こそが望むべき生き方なのであれば、六七分なんとかなるのだから良しとしよう。何より「中吉」でもちゃんと「おみくじ」で良かった。これが「くじびき」でハズレだったりしたら目も当てられない。そんなときは子どもたちのように何度でもくじびきを振り続けてやろう。そう人生は何度でもやり直せるさ!

( 2022/02月号)

蛇足
 この文章を書いた翌年23年初詣でひいたおみくじは三寺社で「大吉」「吉」「大吉」と絶好調のはずだったのですが…ほどなく入院手術となんでやねんの展開に!でも「病治る」って書いてあったからたぶん大丈夫なのでしょう。でもこれって自分にとって都合のいいことだけ信じてるってことなんでしょうかね。
 ちなみに今年はまたしても「中吉」でした。まぁ六七割何とかなるってことにしときましょうか。
本年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

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