いくつになっても親子は親子

こどもって面白い

 先だっての秋葉原の事件で、容疑者の両親が謝罪の会見をしている様子がテレビで報道されいていた。朴訥な語り口で謝罪の言葉を述べる父親の横で動転した母親は泣き崩れていたが、その場にはびっくりするような数の報道陣がいるはずなのに誰一人として倒れている母親に手を貸す者はおらず、若い記者にいたっては「親としての社会的責任はどうするのか?」などという傷口に塩をなすりつけるような言葉を浴びせかけていたのだった。

 このことについてはネットの掲示板でも議論の的となっていて、未成年でもない子どもの行為に親が責任を取らなければならないのか、いや彼が犯行に及んだ一因は家庭環境にあったのだから責任はあるだろう、といった意見のほか、自分があの立場だったらカメラの前に立てただろうか、きっと逃げ出していたに違いない、その意味ではあの両親は立派ではないのかといった意見などが書き込まれていた。もっとも大多数の意見の一致を見ていたのは、報道陣の人としての危うさと社会的責任のなさであった。劇的で刺激的なニュースソースを得るために人としての優しさはかなぐり捨て、自分の立場を括弧に入れて誰かにその責任を押し付ける傲慢さ…「表現の自由」という名の下に振り下ろされる報道というナイフは、立場の弱い者に向かうのではなく、犯人がそうせざるを得なくなった社会的なひずみを生み出しているものへ向かうべきできなかったのか。

 間髪をいれず、埼玉連続幼児殺害事件の犯人が処された。ネズミ男がしたのだと一貫して自分の非を認めなかった犯人の心は解明されないままに幕引きとなってしまったが、ここでもある知識人の方が「やはり厳しすぎた家庭が原因でしょう」などとしたり顔を説明していた。

 社会的にインパクトのある事件が起こったとき、人は自分たちが暮らしている社会を脅かす不安を取り除くための対策を見つけるため、どうしてそのような犯行が行なわれたのか原因探しにやっきになる。しかし、昔のように大多数の日本人が均質だった時代は終わり、地域社会は力を失い、生活スタイルや価値観が多様化している今の時代では、みんなが納得するような原因を見つけることは難しい。そして、大向こうをうならせるようなストーリーがないことをいいことに、短絡的に「家庭」にその原因を求めているような気がしてならないのだ。かつてのようにご近所づきあいが頻繁にあり、家庭の中にも地域が入り込んでいたような時代ならともかく、今の時代に家庭の問題といわれることは即=親の問題といわれるに等しい。どのような場合にも親としての責任はあるだろうが、はたして異邦人のムルソーのように「太陽がまぶしすぎたから…」という不条理な理由で起こされた犯行についても社会はその責を親に問うことができるのだろうか。

 そういえば、北野武がまだビートたけしだったころ、出版社へ殴り込み事件を引き起こした時にたけしの母親は「世間様をお騒がせして申し訳ない。死刑にして下さい!」と言っていたという。子どもがかわいくない親なんていない、しかしその大切なものをなくしてでも社会にわびるという態度、本当はこの言葉に続いて「あの子の罰を見届けて、自分も…」という思いがあったに違いない。

 社会に見放されても生きていけない時代ではない。多様な生き方ができるはずなのに、何かにつけて答えをひとつにしたがる。さてさて窮屈な世の中だ。いったいどうすりゃいいんだろう? よくハンドルの遊びが少ない車は運転しにくいと言われる。こんな時代だからこそ、もっと遊びを大事にしなきゃいけないのかも知れない。

(2008/07月号)

蛇足
 「秋葉原事件」(2008年)の加藤智大死刑囚については、ネットでのトラブルが犯行の原因とされていますが、その後、家庭にも過度なしつけや教育といった問題を抱えていたこともわかってきました。加藤死刑囚が作ったラップには厳しい家庭環境の一端が見て取れます。(一部分のみ掲載)

「人生ファイナルラップ」
 母の夢は絵に描いた餅 京大は俺には無理な口 押しつけられたスタート位置
 レースは始まり縮む命 親は力で支配しがち 屈辱に耐える毎日
 裸足で雪の上に放置 飯は床にぶちまける措置 会話も禁止女友達
 強いられる意図の察知 満点じゃなきゃ平手打ち…(一部のみ)

 ただ彼は「連続幼女誘拐殺人事件」(1988年)の宮崎勤死刑囚のように「ねずみ男」のせいにする訳でも、ムルソーのように不条理のせいにする訳でもなく、あくまで責任は自分自身にあると明言していました。
 コロナ禍で社会が萎縮したり、匿名で正義をふりかざす風潮がますます社会を窮屈にしてしまいそうで心配です。

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