テキトーでごめんね!

ファミリー

 プレイスクールから谷筋を少し下ると細いせせらぎとそれに続く池がある。暑い夏にはこの涼しい谷に下りて、川で水遊びをするのが一番だ。子どもたちと遊んでいると、ひとりの子どもが何かをにぎりしめて近寄ってきた。「フーチン、これ何やろ? 川に落ちてたんやけど…」と開いた手のひらにはまん丸の物体が。「あっ、これはビー玉…」といいかけてあわてて言い換える。「おーっ! これはひょっとして宇宙から飛んできた隕石ではないか! スゲーっ!大発見や!」「こっこれが…いやぁ~そんなわけないやんかぁ! またウソばっかり…」といいながらも、その子は手の中の物体を大事そうにスボンのポケットにしまいこんだ。すかさず「まっ、ウソやけどな!」「ほらやっぱり! もうリーダーってホンマにいつもテキトーなんやから!」

 こんな具合な子どもとのやり取りが日常茶飯事だ。もちろん誰でも彼でもってわけじゃないし、切羽詰まった問いには大人として真剣に答えているつもりだけれど、わざと子どもたちをちょっと揺さぶってみたりしているのだ。それは一言でいうと「大人はいつも正しい」ということが思い込みだということ、世の中にはテキトーな大人もいるということ、そしてそんなテキトーな奴らがいることで実は世の中ちょっとは生きやすくなっているということを伝えたいからなのだ。

 ボクが子どものころは、近所に得体のしれない兄ちゃんとかおっさんとか、たまに会うような親戚におっちゃんとかがいて、彼らはテキトーな言動ととも何やら自由な雰囲気を醸し出していて、それが子ども心にちょっと魅力的な存在だったりしたものだ。近所の兄ちゃんはうんちくたらたら自分のバイクのエンジンをバラシて組み立てられなくなったり、普段何をしているかわからないおっさんは地元の神社のお祭りのときだけ妙に張り切ってその場を仕切っていたり、親戚のおっちゃんはいつも酔っぱらってテキトーなことをしゃべってからんできた。

それ以外の大人たちは、親であったり学校の先生だったり、習い事の先生だったりという立場で社会的役割を担っていて、人としてのしつけを諭されたり、勉学を教授されたり、知識や技術を教えてくれる存在だったが、テキトーな大人たちはそんな立場や役割ではなく素の存在として関係していたような気がする。別に何を教えてくれわけじゃないけれど、兄ちゃんの工具の使い方とかおっさんの人のまとめ方とか、料理人だったおっちゃんの仕事ぶりとかから得たものは実はたくさんあったのかも知れない。

 ひるがえって今の子どもたちの日常に現れる大人のキャスティングはずいぶんと少なく、バリエーションに乏しいのではないだろうか。確かに子どもの周りの大人が、みんな何かの先生だったら効率のいい「教育」ができるのかも知れないけれど、子どもにとっては何だかとてもきゅうくつで息苦しい感じがする。かといって、いつもテキトーなお父さんとか、テキトーな先生とかだとこれも何か問題がありそうだし、やっぱりテキトーな役割を担う大人が別に必要なんだろう。

 そんなテキトーな大人が少なくなったせいか、今どきの子どもから若者たちは大人のいうことをよく聞くいい子ちゃんが多い。いい子ちゃんが悪いというわけじゃないけれど、「大人はいつも正しい」と盲目的に信じることは、自分なりに考え判断することを放棄していることに等しいと思うのだ。どんなエライ人にいわれようと、大先生にいわれようと、それが正しいのかそれに従うのかは自分自身で考えなければならない。特にこれだけ多くの情報が飛び交う現代だからこそ、正しいのか間違っているのかをまずはカッコにいれてから考えるある意味「懐疑的なものの見方」がとても大切なような気がすると、テキトーな大人は思ってしまうのだ。

 そんなわけで付き合いの長い高学年の子どもともなると、あいつの言うことはどうせウソ、大ぶろしきに違いないとはなから信用もしていない様子だが、ほんのたまにまともなことを言ったりすると妙に納得してくれたりする。
「どっ、どうしたん? まともやん!」
「まっ、たまにはまともなとこ見せとかんとな。昔からいうやろ『能あるブタは鼻かくす』って」
「それ、ブタやのうてタカや! それに鼻やなくてツメ! ほんまテキトーなんやから!」
 …ほらね、ちゃんと自分で考えてるやん!

(2020/08月号)

蛇足
 テキトーな大人がいなくなったのは、社会に余裕がなくなってしまったからでしょうか。いまでこそ多様性が大事だなんていわれていますが、昔のほうが多様な大人が存在できる社会だったような気もするのです。「脳化社会」として発展する中で、単純化と効率化のもとでわかりやすい一定の役割を担うもの以外が阻害されてしまう社会になってしまったのかも知れません。
 蟻の社会には2割ほども「働かないアリ」がいるといわれます。みんなが全力いっぱいで働く社会でもし何らかのトラブルがあった場合、その解決に振り向ける余力がなくなり社会全体が停滞してしまいます。そんなときにこの「働かない存在」が役に立つのです。でもホンマに「働けない存在」やと、もしものときにも役に立たないかもね。求められているのはオールマイティな経験をもつ「働かない存在」なのでしょう。

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