人は神になれるのか

こどもって面白い

 朝夕めっきり涼しくなり、やっと秋の訪れを感じる頃となってきた。冒険クラブでもちょっとは遠くまで足を延ばそうかという気分になるものだ。まだ紅葉には早い森を歩いていると、後ろを歩いていた一年生女子たちが落ちていた石を拾って面白いことを始めた。「あっ、この形ええわ。これコントローラーにしようっと」「コントローラーってゲームの?」「うん、歩いてるの退屈やしゲームでもしとくねん…まずは自動運転モードにしてと…ピッ!…これでもうゲームしてても大丈夫やねん」「自動運転って?」「歩くの自動でしてくれるねん。これやったらぶつかったりしいひんねん!」「へぇ~っ、歩くのに自動運転モードがあるんや」とボクは感心してしまったのだった。

 すでにぶつからない車は走っているし、自動運転の実証実験も進んでもうすぐ実用化されるともいう。この子どもたちが大人になるころには当たり前のように自動運転の車が行き交う時代になっていることだろう。車の運転が好きなボクとしては、乗せてもらっているだけの車にあまり魅力は感じないけど、世の中は確実にそちらの方向に進んでいる。もちろんその裏にはかのAIがおられるわけだ。

 自分が年取ったせいなのか、とにかく世の中の進歩は凄まじく、とうについていけなくなっているが、いま目の前に起こっている変化は人類の歴史上いまだ経験したことのないもので、その先には人類が「神」に近づく道が待っているのだと、イスラエルの歴史家、ユバル・ノア・ハラリ氏はいう。

 人類は知恵と努力で「飢餓・戦争・病気」という人類の存在を脅かす敵を克服してきた。いまや史上初めて飢えや紛争や戦争で死ぬ人よりも、肥満を原因とする病気で亡くなる人の方が多い時代を迎えている。つまりもう人類は神に頼る必要がなくなったということだ。

 分子生物学をはじめとする生命科学の進歩は、人間もただの物質のかたまりに過ぎないという身も蓋もない事実に行きつき、それは命が宿る身体すら交換可能であるということを示している。きっと近い将来、人は病気にもならず、ひょっとすると永遠の命を獲得するかもしれない。

 そして心、つまり人間にしかできないであろうと思われていてた思考、考えることすらAIとビッグデータ、そしてアルゴリズムによって実現されようとしている。そのうちに人類はサイボーグ化されて、頭の中にAIが入り込んでくるのかも知れない。永遠の命とスーパー記憶力、そしてAIを操ればすべては自分の思いのまま、つまりは人類は神に近い存在になろうとしているのだ。

 ただしそれはすべての人がなれるわけではない。産業革命が少数の資本家と多数の労働者を生み出したように、一握りのホモ・デウス(ホモ=人類、デウス=神)とそれ以外の「無用者階級」が作りだされるという。

 いやはや何ともたいへんな未来が待っていそうだ。未来に生きる子どもたちにとっては他人事はないが、ハラリ氏が「まだ人類の未来はわれわれの手の内にある」といっているように、今こそわれわれの知性が試されているのだろう。

 ところで万能公平といったイメージのあるAIにも偏見があるらしい。正確には計算の仕方アルゴリズムに偏りがあるのだ。へぇ意外と人間らしいんやなどと思っている場合ではない。そんなAIに全幅の信頼を寄せてものごとを決定させていたら危険だ。金融や犯罪抑止、ましてや軍事で間違った判断をした場合には取り返しのつかないことになる。そういえばSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」(1968年)でも人間と人工知能ハル9000の確執がテーマになっていた。意外と古くて新しいテーマなのだろうが、キューブリックが描いた時と決定的に違うのは、すでにそれが現実のものとして目の前にあるということだ。人の思考回路を取って代わりことはできても、AIに道徳的規範はない。人間が神になる前に、まずはAIがちゃんとした人間になってもらわないとね。あれっ?それやったらAIいらんやん!

(2018/11月号)

蛇足
これはホンの少し前2018年に書いたものですが、たった数年ですでにAIは実用化され、すでにわれわれの生活に入り込んでいます。しかしAIに全幅の信頼を寄せて良いものなのか…カマキリに寄生するハリガネムシはカマキリを洗脳して水場に誘い産卵すると言いますが、人間もそんなふうにあやつり人形にならなきゃいいんだけど…

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