真っ暗な夜の森に子どもたちの声が響く。
こども「○▽×&$#???!」
魔物「ふふふっそんな呪文、ワシには効かんわ」
こ「え~っ、これやないのか!」「ヤバい。次がラストチャンスや」「う~ん、ならば□×△@¥!」
魔「ぬぬっ…うぉぉぉぉぉぉっ、やられたぁ~っ!」
こ「よっしゃ、やった~っ!ラスボス倒したぞ!」
今夜は冒険クラブのワンナイトキャンプだ。ただいま夜のプログラム「ホグワッハッハ魔法魔術学校の謎」といういかにもパクリなお話しのナイトラリーの真っ最中、子どもたちは魔法の呪文を使いながら森に棲むトロールやゴブリン、ドラゴンなどを倒していく冒険の旅、いわば実写版ロールプレイングゲームが展開されているのだ。
それにとても今夜の森は本当に真っ暗で、ライトに照らし出される世界以外は漆黒の闇、そんな中で魔法じゃ呪文じゃ魔物じゃなどというものだからかなり本気でビビっている子どももいたのだった。グループわけをして中高学年のグループはリーダーなしで子どもだけで回っておいでと言ったら大ブーイング。「真っ暗な夜の森に子どもだけで出歩いたりしたら危ないじゃないの。ゼッタイに大人がついていかないといけない。これは決まっていることなの! 何かあったらどうするの!」と語気を強める子どもは、まるで謝罪記者会見で正義の味方のように問い詰めるマスコミのようだったし、「え~っ、オレらだけで回るの…う~んええけどちゃんと帰って来られたらひとり5万円チョーダイや!」と危険手当を要求する労組代表のような子どももいた。まぁ兎にも角にも暗闇を目の前にして心が揺れまくっていたのだろう。
確かにいまの世の中、子どもたちの生活環境には暗闇などほとんどないといってもいい。室内はLEDや蛍光灯で隅々まで明るく、住宅街には街灯がつき、24時間眠らない街にはネオンや看板の照明がきらめくまことに安心安全な社会である。しかしそれは子どもたちが暗闇がイメージさせる「恐怖」や「死」「超越的なもの」と向き合うことなく成長するということではないのか。恐怖を知っているからこそ安らぎと安堵の意味を知り、死を身近なものとして受け入れることで生が充実する。きっと暗闇がもっと身近にあった時代には、その闇に魔物や妖怪が巣くっていたのだろうし、暗闇にこそファンタジーの翼が眠っていたのだ。暗闇のない社会、彼らの最後の居場所は液晶ディスプレイの中、やっぱりゲームにしかないのかなぁ。
ラスボスを倒して意気揚々と引き上げてきた子どもらは、寒空の下素っ裸になって恒例のドラム缶風呂でほっと一息。その表情には、暗闇の大冒険果たした充実感と恐怖心に打ち勝った安堵感に満ち満ちていたのだった。
風呂から上がった子どもたちから「5万円コール」がわきあがる。おいおいそりゃないぜ。この暗闇の中、子どもたちが来るまで寒さに耐えながら待っていた魔物役のリーダーたちにこそ危険手当が必要なんじゃないの。
(2016/12月号)
蛇足
人間が暗闇に恐怖を感じるのは、五感の中でも視覚から得ている情報が8割ほどにもなることによります。たしかに見えないと動くこともままなりませんものね。暗がりでの頼りは懐中電灯(…この呼び方ってどうも昭和な感じがするのですが、他にいいようがないのかな?)、その昔は光源が豆電球だったものですから、まだ明るい昼間からうれしそうにライトをつてけ遊んでいて、いざ夜になる頃には電池がなくなってつかなくなって泣きを見る子どももよくおられました。今では消費電力の少ないLEDがほとんどなのでこんなこともありませんが、これでまたひとつ子どもたちが闇を体験する機会がなくなっちゃったってことかも知れませんね。