理由なき反抗の理由

こどもって面白い

 今年の幼児クラスも何人かのこどもたちの泣き声とともに始まった。リーダーにだっこされながら涙目で不安げに周りを見ているこどもの横では、去年一年間待ちに待ち、満を持してプレイスクールにやって来たこどもが走り回っている。毎年のいつもの春先の光景だ。

 こどもたちはいろいろだけれど、きっと共通していることはこの頃のこどもたちはわれわれ大人に対して全幅の信頼を寄せているということではないだろうか。リーダーを信頼しているからその胸に抱かれているのだろうし、信頼しているからこそ罵詈雑言を投げつけ、パンチキックの攻撃を仕掛けてくるのだろう…信頼されているとはいえ、これはあまり嬉しくはないけれど。

 しかしそんなこどもと大人の蜜月も、こどもたちが成長するとともに波風が立ち始めるものだ。「いつも大人は…」「大人はズルい…」早く寝かしつけられた後に、大人だけできっと美味しいお菓子を食べているに違いないなどというたわいもない疑惑から、ルールだからといって従わなければならないことに対してのいらだち、そして自分のこの気持ちをわかってもらえない焦燥と絶望感、さらに思春期ともなると大人という存在だけではなく社会全体に対して疑問や反抗心を抱くようになっていく。

 80年代に多感な季節を過ごした方には、そんなときに尾崎豊の声が心に届いたのではないか。「盗んだバイクで走り出す…(15の夜・83年)」「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった…(卒業・85年)」この詩がラジオから流れていた頃は、校内暴力やいじめ自殺などといった問題が社会を騒がせていた時代だ。もっともみんながみんなこんなことをしていたわけではないけれど、社会や大人に対するいらだちを共感できたという意味で、尾崎豊は「若者の代弁者」といわれるようになったのだった。

 ところが、今の若者たちはこの尾崎の言葉は心に響かないのだそうだ。大学生たちに尾崎の歌を聴かせると「周りに迷惑をかけるのはよくない」「こどものことを考えてくれている大人に反発するのはおかしい」といった意見が出るのだという。何ものかに反抗しながら自分自身を見つめて成長するということがないのか、それともすでに打算的でわれわれよりも大人なのだろうか。みんながみんなではないにしても、そんないい子というか「こども大人」な若者の存在はちょっと心配になってしまう。

 しかしよくよく考えてみれば、そんな若者たちに反抗される対象というのは実はわれわれ自身なわけで、確かに年齢や社会的には大人とはいうものの、自分の親父たちの頃のような「骨」があるのかといわれるといささか心許なく、争いを避けてついついもの分かりが良かったりするものだから、若者としても反抗のしようがない役立たずな存在なのかも知れず、何やら社会的な役割を果たせず申し訳なかったりするのである。せめて心の中で尾崎の歌を歌いつつ、オレを乗り越えて行けと身を横たえて時代の橋渡しになるのが精一杯といったところか。

 いまはのりのりの幼児クラスのこどもたちも、5月の連休を過ぎると少し変わってくる。すごくいい子だったこどもたちが、下駄箱に靴も入れず、お掃除もせずに遊び倒すようになる。これも反抗? いえいえ、幼稚園とは違ってプレイスクールという場ではこれくらいは大目に見てくれるということがわかっただけ。やっぱりベースは信頼感です。

(2007/05月号)

蛇足
 社会的な規範であったり、どのように生きるのかといったロードモデルのないこの時代、さまざまな生き方もできる反面、なんでもかんでも自分で決めなければならないこともなかなかしんどそうです。社会に反発もしながら、「型」をずらして自分らしさを見つけられた時代もその意味では楽だったのかも知れません。
 もちろん今の若者たちが社会的課題の解決に意欲的なことはすばらしいことです。爺ぃ世代は老婆心で口を挟まず、黙って橋となる方がいいのでしょう。未来はカオスから!

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