何やらたいへんなことになっているようです。
先日、外仕事をしていたときのこと、通りがかった方が声をかけてくださった。よく見ると昔の保護者の方で、その頃小学生だった子どもたちは立派に成人して結婚も控えているという。聞けば早期退職をして、いまは市内の小学校で学童保育の指導員をされているらしいが、「今の子どもたちの様子に愕然とする」と言うのだった。一部の子どもではあるものの「我がよければそれでよい。人のことはどうでもよい」という考え方や行動が目立つという。グループごとに行動をしても自分のことだけさっさと済ませ、人のことを手伝ってやるとか、気にしてやるとかいう気持ちはみじんもなく、協力や協調などあり得ないので、連帯責任などというものも成立しないのだという。
確かに自分一人でもゲーム機に遊んでもらうことはできるし、スマホやパソコンの向こうには自分好みの仮想の世界が広がっている。ネットでつながっているとはいうものの、リアルな世界での人間関係のように、抜き差しならなかったり理不尽だったりすることはなく、都合が悪くなれば電源をオフにすれば安静な自分だけの世界に戻ることができる。便利な時代です。面倒なことはとことん避けることが可能な社会です。結局、生のベクトルは自分にだけ向けられていて、隣にいる友だちや世界に向かうこともない。そして他人への無関心は社会への無関心につながる。
「こんな社会にしてしまったのはわれわれの責任でもあるのだが、はたしてこの国の未来はどうなるのだろうと、そんな子どもたちを見ていて考え込んでしまう」と元保護者のお父さんは悲しそうな眼をして語っておられたのだった。
何やらスゴイことになっているようです。
2年生の女の子が話しかけてきた。「ふうちんってチャラ男?」「えっ?」「髪の毛、茶色いし…」「いやあの、これは白髪染めなわけで…」「そやなぁ、やっぱちゃうか」「何でチャラ男なん?」「あんなぁ、こないだ授業参観があってな、クラスの友だちのお父さんが来はってんけど、髪の毛金色でブレスレットとかチェーンとかじゃらじゃらつけてはってん。その子のお母さんなんか犬だっこして連れて来てはってんで」「え~~~っ? 参観日に犬だぁ!?…✕△○□」
すみません。わたくしどっぷり昭和な人間なもので、学校の参観日にはお母さんもそれなりの格好をして、場合によってはパーマ屋さんに行くくらいの覚悟で臨むものと思っておりました。いや、そのお父さんも散髪屋さんでカラーしてから来られてのかも知れませんし、着飾ったのがじゃらじゃらだったのかも知れませんし、うちにもかわいいワンコがいるので家族同然な気分もわかりますが、さすがに神聖な(?)教室に四足はいかがなものかと、動物アレルギーの子どもがいたりしたらたいへんなことになるのではないかと、その話はわたくしの理解と許容を越えてしまっていたのでありました。
そういえば、あるお母さんの話では教室の後ろの並んだ保護者の方々はケータイで写真を撮られたりビデオを回されたり、中には子どもの顔が映るベストアングルを求めて子どもの机の列にまで勝手に入り込んでしまわれる方もいらっしゃるのだとお聞きしました。もう問題は子どもではなく完全に大人にありそうです。
人間は社会的な動物であるといわれたりするわけですが、直接的に他者や社会と接することなくとも生きらそうなこの時代では、この社会性を身につけるためにもそれなりの努力が必要になっているのかも知れません。もちろん社会性などというものは頭で考えるものではなく、身体で覚える類いのものでしょうから、まず隣にいる友だちに何をしてあげれば喜んでくれるのかということからスタートではないでしょうか。人が喜んでくれると自分もうれしいという感覚から始まるのかも知れませんね。個は個だけで作られるものではなく、他者や群れの中で育つものなのでしょう。
しかし、世の中はたいへんなことになっているんですねぇ。プレイスクールは社会から隔絶されたまるで楽園のようだとあらためて幸せに感じつつも、ひょっとして一番社会性が身についていないのは自分自身ではないのかとちょっと背筋が寒くなったのでありました。この際、金髪にしてやるか。髪の毛が残っている間しかできひんし!
(2015/03月号)
蛇足
この文章を書いたのはずいぶんと前のこと、きっと今は学童も参観日も改善されているに違いないでしょう…あっ、コロナ禍で学校は休校になり人と接することはご法度となってしまったから事態はさらに深刻になっているのかも知れません。社会性を欠いたわたくしめもそれに乗じてパツキン爺ぃになってしまいました。