首元にキラリ!

キンダー

 日中、最後の力をふりしぼって鳴くセミの声も、夕刻あっという間に広がる暗がりとともに秋の虫の声に取って代わる。夏が暑かっただけに、何だか急に秋めいてきた印象だ。例年この時期ともなれば、子どもたちは運動会の練習に忙しかったりするが、地域によっては今年はコロナでそんなこともないらしい。スポーツに芸術にと何かと行事の多かったこの季節も何だかひっそりとしている。

 「何でフーチン、ネックレスしてるん? 男のくせにへんなのぉ!」もうかなり前から首にぶら下げているこれは、決して鑑札のついた首輪でも肩こりのための磁気なんちゃらでもなく、別段つけていなきゃなんないこれといった理由があるわけでもない。だいたいこれに気がつくのはキラキラしたものに目がない女子たちで、彼女たちにとって首飾りはかわいいもの=女の子のものと決まっていて、それをヒゲづらのおっさんがしていることに違和感を感じるらしい。

 よしよし、久しぶりに喰いついてきたね。「いやぁ、実はフーチンは女の子やねん」「え~っ! 女の子…そんなわけないやん。だってヒゲ生えてるやん! ヒゲは男の人にしか生えへんねんで。ゼッタイ嘘や!」「あれっ? キミのお母さん生えてへんの?」「生えてるわけないやん! 女やもん。」「あっ知らんねんな。お母さん、キミが寝た後にこっそりヒゲそってはんねんで。」「また嘘ばっかり! ホンマ、フーチンええかげんやし。」と、ここまでがお決まりのパターン。いままでにいったい何人の子どもたちこんなやり取りをしたことだろう。もちろんお互いに冗談だとわかったうえでの言葉のお遊びなのだが、どうにもこれからはこんな冗談もいえない時代になってきたようだ。

 ジェンダーやLBGTなどからみれば、こんなやり取りも望ましいことではないのかも知れない。リベラルなこの時代、テレビをつけたら女装をした男性がフツーに出ておられ、それもキワモノではなくその人の個性ということになっている。自由に生きれるというのはいいことなんだろうが、いままで規範なり常識として社会が認めていたものからみんなが自由になるということは、必然的に社会が分断される方向に進むということでもあろう。まぁキワモノみたいな生き方をしてきたボクなどがいえた義理ではないが、いまの子どもたちが大人になるころには、果たしてどんな社会になっていくのだろう。

 それはつまり「らしさ」というものに囚われなくていいってことなのだろうが、子どもが育つ中では何かしらの「らしさ」は意味を持っているような気がする。最初から「らしくなくていい」といわれちゃうと、何をモデルにすればいいんだろう。「らしさ」から足し算したり引き算したりして「自分らしさ」ができていくように思うのだが、いきなり自分で自分らしさを考えろっていわれても困るよなぁ。

 ところで最近、例のやり取りでボクが女性であるということを本気で信じてくれる子がいて、お友だちにも「フーチンはヒゲがあるけど女の子なんだよ」と伝えてくれてらしい。子どもたちみんながそう思うようなったら、いったいどうなってしまうのだろう。社会心理学の中に「役割取得」という考え方がある。人間の自我は他者との関わりを繰りかえす中で作られ発達するもので、他者の期待する行動形式を自分のものとして取り入れ、それらしく振舞うことで獲得していくとされている。他者を鏡としてそこに映った自分を発見し、それを許容することで自我が作られるという考え方だ。ということは、周りの子どもたちみんながボクのことを女子としてみたりすると、その役割を果たすためにボクは女性化していくのだろうか。ネックレスぐらいじゃ足りないわね。ピアスに口紅、ネイルもしなきゃ。あらやだ、わたしったら! 人生二回り目、まぁそれも悪くはないっ!

(2020/10月号)

蛇足 「役割取得」についてはまったくの曲解ですが、人間の成長を社会的な存在からとらえる見方としては的を得ているような気がします。「個性」と「自分らしさ」との違いなどについても正確とはいえないので、笑って読み飛ばしてくださいませ。m(_ _)m

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