AIに愛はあるか

こどもって面白い

 今年度もそれぞれのクラスの活動がスタートした。幼児クラスでは年中さんから年長さんに変って急に自信をつけた子どもたちが「名札の色、変わったし! 赤から青になったし!」と自慢げに話をしてくれる毎年の春の光景が展開されている。たった一年のことなのだけれど、子どもたちは身体も大きくなったしいろんなことができるようになった。何たって彼らの人生の1/5もの時間なのだ。それほどに彼らは日々濃厚な時間を過ごしている。

 そんな年長さんの後を追いかけるように、荷物を重そうに持った年中さんが嬉しそうにそして少し不安げにプレイスクールへの階段を降りてくる。まだ活動が始まって間もないので、緊張で表情の硬い子どももいて、どうしてあげたら彼らにとってここが居場所になるかをボクたちも手探りで探している状態だ。何にせよ情報が少な過ぎる。一緒に遊んでいる間に、その子がどんなことに興味があるのか、苦手なものはなんなのか、どんな関わり方をしてあげたらいいのかがだんだんとわかってくる。いわばその子のデータが集積されていくのだ。いま世の中で話題のビッグデータ? いえいえそんな偉そうなもんじゃないけれど、その子を理解する一助にはなるのだ。

 話は変わるけれど、厚労省が医療の面でビッグデータを活用しようとしているらしい。そういうと少し前にAIが症状や検査数値からなかなか発見されにくい病気を見つけたと話題になった。確かに理論的には日本中の医療機関から集めたデータを使ってAIが学習したら、いとも簡単に病気の原因が特定されるかも知れない。近い将来、病院に行って診察室に入ったらペッパー君が待っているなんてことになるのだろうか。

 しかしペッパー君に向かって「お腹がしくしく痛いんです」とか「右手のこのあたりがピリピリする」とか話をしても「それはたいへんですね」とは返してくれるだろうけど、その痛みを共感してはくれないだろう。それは単なる情報の受渡しに過ぎず、会話とは言えないような気がする。機械に生身の身体が抱える気分は伝わらない。

 ましてや気分次第で生きているお子様たちの言葉はまだまだAIには理解できないだろうなぁ。何たって気分だけでお腹が痛くなったりするんだから。そういえば、知り合いのお医者さんがこんなことを話していた。前はいろいろ診察して、医者が「大丈夫たいしたことはない」といったらそれだけで治る病気もあったけれど、セカンドオピニオンだとか病院に来る人を患者様だとか言い出すようになってからは治らなくなったというのだ。

 人って案外、気分で生きているのかも知れない。言葉もままならない子どもたちを相手にしていると、言葉の情報以上にちょっとしたしぐさや表情が語ることを感じる「耳」が大事だと思うようになる。それって相手を理解しようと思いやる「愛」ってやつかも。

 えっ? そんなこともすぐにペッパー君もできるようになるって? そうかも知れない。だって彼らは「ディープラーニング」、こちとらの浅はかな考えとは格が違うか。しかし、診察室のペッパー君に「大丈夫です。心配ないです」といわれて病気が治るようになるということは、人間が人よりも機械を信じるということなわけで、それはそれで未来が心配で憂鬱な気分になってしまったのだった。

(2018/05月号)

蛇足 この文章を書いた5年前からAIは驚異的に進化しています。とっつきやすいインターフェースや導き出される答えの正確さなど格段に変わっていますが、何よりも変わったのは、われわれがAIに絶大なる信頼を寄せるようになったことではないでしょうか。疑いもなくAIの答えを信用してしまう、もしくはその真偽について思考停止してしまうことの危うさって大丈夫なのかなぁ…

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