小学生クラスの活動も終わり、ボクが台所でその片付けをしていると、女の子が入ってきてしゃべりかけてきた。
「何してんのん?」「お片付けにキマってますやん。今日は暑かったねぇ。汗だくやわ。はよ帰ってお風呂はいりたいね」そんな話をしていると、その子が急に真顔になってこんなことを聞いてきた。
「あのさぁ。フーチン、朝から一日じゅうお風呂に入ったことある?」「一日じゅう? ないけど、めっちゃゆっくりできそうやなぁ。一度やってみたいねぇ」するとその子はあわてて「アカンで! ゼッタイしたらアカンで! あんなぁ、ずっとお風呂に入ってたら足とか溶けてしまうんやで!」というではないか。あまりの真剣さに押されて「えーっ! 足が溶けてなくなるのか…そらコワイなぁ! やめとくわ」と応えると、「うん、ゼッタイしたらアカンで!」とその子は念を押してどこかに走っていった。
そういえば、こどもの頃って皮膚も薄くて柔らかかったから長湯をしていると足の裏とか白くシワシワになってたよなぁ…それであの子も足が溶けると思ったのかなぁ(…ま、いまじゃ三日くらい風呂に浸かっていても、面の皮同様角質化した足の皮膚はびくともしないけど…)。それともあのお家は兄弟が多いから長湯防止にお母さんが入れ知恵したのかも知れないなぁなどと、鍋底の焦げを洗いながら思いをめぐらせていたのだった。
われわれ大人のようにいわゆる常識をまだ知らないこどもたちにとって、世界はフシギで満ちている。例えるならば、大人は天井に並んだ常識という蛍光灯(あっいまやLEDか…)に照らされ、部屋の隅々まで均質に明るい世界に住んでいるようなものだが、これに対してこどもたちは、部屋の真ん中に裸電球(あぁこれも昭和や…)がポツンとひとつついていて部屋のすみっこは薄暗い、そんな世界に住んでいるといったイメージだ。そして、その暗がりには得体の知れないもの、妖怪やお化け、迷信、非科学的なことが渦巻く魑魅魍魎の世界への入り口がぽっかりと口を開けているのだ。だからこどもは日々そんな非日常の世界を身近に感じながら生きている。ジバニャンや鬼太郎や口裂け女(これまた古いなぁ…)はこどもの世界では現実の隣人なのだ。そして、これら得体の知れないものは実は「死」を象徴しているとも言えるだろう。「七歳までは神のうち」とも言われるように、その昔、こどもたちは死と隣り合わせで成長するものだった。きっと本能的に「死」のニオイを身近なものとして感じ取っているからなのかも知れない。
もちろん衛生的で医療も整ったいまの日本では、現実的に死を感じることなどなかった。そう得体の知れないウイルスが現れるまでは。今までの常識や人智では太刀打ちできず、アマビエなる妖怪まで引っ張り出す慌てようは、いかにわれわれ大人が世界をわかったものとして知ったかぶりしていたのかを白日のもとに晒したし、LEDの明かりに映らない異界がわれわれにとってもすぐそこにあることを気づかせてくれた。みんな何の疑いもなく、安心安全に平均寿命まで予定調和的に生きられるって思っていたこともただの幻想かもね。
ならば「遊ぶの全力100%、寝るときも全身全霊100%」くらいの気合で日々を過ごしているこどもたちを見習って、いまこの時を精いっぱい生きたいものだ。もちろん好き勝手という意味じゃではなく気分の問題、いましばらくはマスクはマスト! Rock’n’ Roll!
生きるということに 命をかけてみたい
歴史が始まる前 人はケダモノだった
「世界の真ん中」The Blue Hearts
(2021/07月号)
蛇足
妖怪におばけに鬼地獄、天使に妖精に魔法使い…こどもたちは実際にさまざまな登場人物に囲まれて生きているのでしょう。それはそれで楽しいかも知れませんね。実際、そんな存在が「見える」という子もいて、ふいに「あの木のとこに何かいる…」とか言い出すのです。そんな能力をスゴいと思いつつも、もし万が一緊急事態で止むに止まれず立ちションなどをしなければならない状況に陥ったときに、そんなものが見えてしまったらまさしく地獄を見ることになるではないか、あぁ見えなくてよかったと心から思ったボクなのでした(あぁ最後まで昭和…)