子どもたちとハイキングに出かけたときのことだ。トイレ休憩である子と並んで連れションをしていたら、その子がぼそっとこう言ったのだった。「あんな、ボクがどうして背が高いのんか教えたげよか。小さいときから大人用のトイレでしてたから、背が高くなってん!」「ホンマか! そらスゴイがな!」確かにこの子は同じ学年の子どもに比べるとちょっと大きいので、ボクも大きくうなずいてしまったのだった。そういえば子どもの頃、大人用の男子便器いわゆる朝顔ってやつにつま先立ちになりながら用を足したことのある男性も多いのではないだろうか。きっとこのあたりの話は女性には通じにくいに違いないが、この朝顔の高さが子どもにとっては越えるに越えられぬ大人へのハードル(ちょっと言い過ぎです)のように感じられたものなのだ。
この子は小さいときからこの朝顔の高さに戦いを挑んでいたがゆえに、自分の背が高くなったとのたまうのである。これはまるで忍者が高く跳べるように行っていたという麻の上を飛び越える修行のようだ。麻は成長が早く日々どんどんと大きく高くなるので、それを毎日跳び越えることで忍者はすごい跳躍力を身につけたというのである。それは白土三平先生の「少年忍者サスケ」に書いてあるからして間違いないのである。
さらに言えばこの子の説は、ラマルクの進化論すら思い起こさせる。進化論は一般的にはダーウィンのものが有名だが、それ以外にもさまざまな進化論を唱えた偉人たちがいたのだ。ラマルクの進化論はよくキリンを例に説明される。キリンの首が長くなったのは、高いところにある葉っぱを食べたいために、日々首を伸ばしていたから長くなったというのだ。つまりキリンは努力して首を長くしたというわけだ。その男の子の背が高くなったのもつま先立ちの努力の結果だと言えなくもないのだ。
考えてみれば子どもたちは日々何かに挑んでいる存在ではないだろうか。勉強や運動、もの作りから食事にお着替えにいたるまで、すべてのことで小さな壁を乗り越え続けている存在なのだ。うまくいく日もあるし、できないときもある。それでもあきられめずにチャレンジし続けている子どもって、やっぱりすごい人たちなのかも知れない。「あんな風になりたいからなる」ラマルクのキリンのように、いつかはきっと花開く日がくるに違いない。
しかしである。最近のトイレ事情は身長に関係なく使用できる縦長のものが主流となり、さらに最近の家庭には洋式トイレしかないわけで、しかもその高さたるやあまりにも低く、きっとこのことが大人となることへのハードルの低さととともに大人になりきれない大人の増殖と人としての志の低さにつながっているではないかと、男性も座って用を足すべしという時代の要請を受け入れつつ、ぬくぬくと居心地の良い便座に座りながらあれこれと考えていたボクなのであった。
( 2010/12月号)
蛇足
また適当なことを書いてしまいました。今の生物学ではラマルクの進化論は認められていません。ある個体が獲得した形質が遺伝することは証明されておらず、ましてや朝顔理論で背が伸びたことを進化などとは呼べません。夢々、信じられませんように。
京大学派の生態学者で文化人類学者の今西錦司先生(1902-1992年)が唱えた今西進化論はとてもユニークで、「なるべくしてそうなった。変わるべくして変わった」というほとんど禅問答のようなものですが、あんがいここに西洋的なものの見方を突き抜けるヒントがあるのかも知れません。