身体に刻まれた思い出

こどもって面白い

 「えぇぇぇぇっ! 何これぇぇぇっ! 凍ってる…」「ひぇ~っ! 池が凍ってるぅぅっ!」「石、投げてみようぜ!…いちにーのさんっ!」

 チェ~ン、チェン、チェン、チッチッチッチッ…投げられた石は、澄んだ音を残しながら氷の上を対岸まで滑っていった。「すごいっ! 割れへん!」「氷投げたらどうやろ?」今度は水辺の氷を取り上げて投げてみると…パリンッ!シャリンシャリン、チャラチャラリン…その音はエコーがかかって対岸の山から森に広がっていった。「きれいな音やなぁ!」

 暦の上では雨水も過ぎ、季節は日いちにちと春に向かっている。しかし今年の冬は寒かった。毎朝、氷点下の冷え込みが続いたものだから、プレイスクールの下にある池が氷結するという珍しい光景が現れたのだった。しかも石を投げても割れないくらいの分厚い氷がはっていたのだった。これにはこどもたちもビックリだ。「こんなけ丈夫やったら、乗れるんちゃうん?」と氷に乗ろうと足を出しかけたこどもをあわてて止めて、寒いからもう戻ろうと適当な理由でプレイスクールに帰ることにしたのだが、なかなかお目にかかれない景色と音色を、氷を手にした冷たさや寒さととも心に刻んでおいてほしいなと思っていたのだった。

 最近、プレイスクールに来るなり「今日の『思い出作り』はなに?」と聞いてくるこどもがいる。「今日はなにするの?」ではなく、「思い出作り」と聞いて来るあたりが今風なのかなと思ったりするのだ。それは何やら、行ったところや食べたもの、経験したことのすべてをスマホのカメラに納めてSNSにアップして、自分の経験を外部のメディアに蓄積することに満足を感じる時代の空気に似ている。しかし、人間は何も思い出を作るために生きているわけではない。ふと振り返ったときに心の隅っこからふっと湧き出して、また静かに心の底に沈んでいくものが思い出なのではないのか。それはきれいな写真や映像としてではなく、その場の空気や匂い、触覚や痛さ、熱さや冷たさといった五感を震わした身体感覚とともに記憶されている。それにきっと本当に感動しているときには写真を撮ることなど忘れて、その場に立ち尽くしているような気がするのだ。

 もちろんボクたちもこどもたちにそんな感動するような経験をしてもらいたいとは思っているけれど、毎回毎回の活動が感動的なわけではない。それにこどもたちの記憶って実にへんなことを憶えていたりするものなのだ。大きくなったプレイスクールの卒業生に聞いても、ボクと何人かのこどもたちでお話しを作って紙芝居みたいなものを作ったこととか、遊んでいたしゃぼん玉が割れずに森の遠くまで飛んで行ったこととか、ボクが冗談で工房の掛け時計からは夜中になるとお化けが出てくると言ったこととか、春になったら草を食べさせられた(ヒジョーに聞こえが悪いが野草のてんぷらのこと)とか、まぁどーでもええようなことを憶えてくれていたりするのだ。人間の思い出って案外そんなどうでもいいことの積み重ねなのかも知れないし、だとしたらSNSに蓄積するほどのこともないのかも知れない。大事な思い出はきっと身体が覚えてくれているに違いないのだ。

 しかし、実は記憶というものは後から都合のいいように書き換えられたりもするので、あの凍った池で衝撃を受けたこどもが大きくなった時に「昔、凍った池の上で四回転ルッツを跳んだ」なんて言ってるかも知れないなぁ。「そん時に転んでケガしたんやけど、その後に出たオリンピックで金メダルとったんや! どやっ! すごいやろ!」…おいおい、それは思い出じゃなくてただのホラや!

(2018/03月号)

蛇足
 デジタル機器に頼って自分では情報を覚えようとしない「グーグル効果」や「デジタル健忘症」が問題なったりしています。確かに覚えておくことも大切ですが、人間忘れることも大事なのです。辛かったことしんどかったことは忘れた方がきっと楽になるでしょう。最近、ボクなんかすぐに忘れられます。しんどかったことだけじゃなく、覚えておかなきゃいけないことも…これもデジタル健忘症? それとも進化?

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