Nonverbal,it’s OK!

こどもって面白い

 能舞台に三味の音が響く。ヂャヂャヂャンヂャン…恋いしこがれしおのこを探し、たどり着いたは日高川、波も逆巻く川面のはてに、探せどおのこの姿は見えず、だまされ捨つるるわが身が悲し、悲哀は狂気にかわりゆく…舞台上に置かれた日高川と書かれた木柱に清姫の人形がからみつく。情念に身をくねらせ、よよよと揺れる細い肩、人形の目には見えない涙が流れている。そして、使い手が人形の櫛をすっと抜き頭をゆするや、清姫は髪をふり乱し怒りに目をつり上げて、日高川にその身を投げ、やがて化け物に姿を変えてにっくき男を追いかける。浄瑠璃「日高川・渡し場の段」のクライマックスだ。

 先日、福岡プレイスクールが主催した「伝統人形芝居を観る会」でのひとこまである。住吉神社能楽堂に集まった多くの観客の目が、謡に合わせて動く身の丈三尺ほどの人形に釘づけとなっていたのだった。人形劇の公演としてはお客さんの年齢層は高いのだが、そんな中に混じって子どもたちの姿も見受けられた。大人向けのお話でもあり、また語りの言葉づかいも子どもには難しいので、はたして子どもたちの反応はどうなのかと少し心配していたのだけれど、まるで人間のように動く人形の動きに魅入られたのか、最後までしっかりと観てくれていた。

 考えてみれば、子どもにとって世の中は知らなかったり意味不明の言葉でできているといってもよく、ということは子どもは言葉以外でのコミュニケーションで世界を理解しているのかも知れないのだ。それは相手の動きであったり、醸し出す雰囲気であったり、その場の空気といったもので判断をしているのだろう。

 今回は伝統的な演目の他にも今風にアレンジした作品も演じられたのだが、その中でこの道うん十年の先達が人形との掛け合いでおもしろおかしく世の矛盾や危うさに警鐘を鳴らす作品があり、実はテーマは原発や平和といった重いものだったにも関わらず、その洒脱な語り口に最前列の小学校低学年くらいの女の子がやたらウケていて、「どこそこの国の首相はアメリカの傀儡政権ではないか」という大人でも漢字で書けないくらい難しい言葉に笑い転げていたのだった。まさかカイライなどという意味をその子が知っているわけではなく、周りの大人が笑うのにつられて笑っていただけかも知れないけれど、ひょっとするとその子の記憶のどこかにカイライという言葉は残っていていつの日にか正確に意味とマッチングする時が来るのかも知れない。

 実はボクは子どもの頃、落語が好きよくテレビで観ていたのだが、たいていの噺は昔々が舞台なのでわからない言葉がけっこうあったにも関わらず、何だかわかったような気になって笑っていたように思う。子どもにとっての言葉とは案外とそんなものなのだろう。ということは、子どもに対しては言葉であれこれいっても実はテキトーなくらいにしか伝わっていないと思っておく方がいいってことだ。オイタをした子には「めっ!」で十分、諭そうとして理路整然と語っても馬の耳に念仏なのだ。

 そういえばずいぶんと前に子どもと遊んでいて「この青二才がぁぁっ!」と言われたことがあったけど、その頃流行っていたゲームの中に出てきてたから意味もわからずそういっていたのか、それとも実はしっかりと意味がわかっていてそういっていたのかはわからない。青くて悪うござんした…何っ?お前のそれは青いんやなくて老班(シミ)やと!

(2014/10月号)

蛇足
 コミュニケーションにおいて、言葉以外の話し方の強弱や口調、聴覚情報、表情や手振りや姿勢などの視覚情報の重要性を強調するのに引用される「メラビアンの法則」というものがあります。バーバル(言葉)が7%、ノンバーバルは93%と割合でしめされたりしますが、この法則はあくまで実験室という限られた状況の中でのお話なので一般的なコミュニケーションに適用することはできないのだそうです。ただノンバーバルコミュニケーションが重要性な役割を果たしていることは間違いありません。コロナ禍で一気に進んだリモートコミュニケーションのもどかしさも、言葉以外のこの部分がすっきりと伝わらないからなのかも知れませんね。
 いろいろとオイタをしてくれるうちの子にもよく切々と言い聞かせるのですが、首をひねるばかりでいっこうにわかってくれません。なぜかって? うちの子、まだ1歳のわんワンコなもんですから…あっ、またこんなとこでオシッコして!

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